上折立集落

年寄りのたわ言

年寄りのたわ言

我が家の上隣の家の先代の爺さんが、一冊の本を自費出版して集落全体近隣知人に配ったと思われる書籍が残っている。
集落というよりは、小字「湯中居」という20件そこそこの集落の生い立ちから当時の現状などを記述しています。
今 現存の若奥さんに、こういう書物があるのでブログで公表してよいかと訪ねましたら そんなのがあるんですか?どうぞご自由にということで快諾をしばらく前に得ておりましたので、
あまり当地域に住んでいなければ、分からないと思いますが、本業のネタは今は多忙のためまとまりがつかなくてもうしばらくしたらおいおいとアップしますが、
前に書き留めていた、約3分の1位の量ですが、アップします。
あとは後ほど追加します。
発行
平成八年十一月一日
新潟県北魚沼郡湯之谷村上折立
富永 弘

年寄りのたわ言

自宅前で

植林視察に来村の県知事の案内役

栃尾又にて 妻と孫

子宝の授かる子持ち杉

六十過ぎての習作

もくじ

まえがき
上折立の生い立ち
教育関係について
産業について
上折立の産業
昭和初期からの米について
誇りとなるもの
奥只見の電源開発
戦後変わった部分的なこと
農作業
冬仕事
春から初夏の農作業
夏場の農作業
秋始末
養蚕業について
製炭業について
ぜんまい取り
栃尾又での野菜売り
風習その他について
冠婚葬祭
昭和初期の頃の衣類
食生活について
住まいについて
水道について
道路関係では
あとがき

まえがき

歳月は人を待たずとよく言われますが、時計の針が休みなく時を刻むように、我々人間の歳も誰もが同じに積み重なって、私などもう八十歳を過ぎました。
この八十数年を今あらためて振り返ってみて思うに、折角この世に生を受けながら自分に何が出来たのか、ただ毎日「ノーノー」としていたわけではないが、結果的には何も出来ず何も残っていないのが悔やまれてならない。
八十年もの長い歳月、いろいろなことに出会い、様々な体験も下が考えてみれば世の中があまりにも急激に変わったことだと思う。
そういう中で年寄にとって一番ありがたいのは、老人の医療制度と年金の受給です。
昭和初期から戦時中の物不足の頃を思えば、現在はもうなにもかもが有り余る裕福な時代となり、生活水準も高くなりまことに結構な時世になりました。
しかし私は有難い、もったいないと思う反面、あの苦しかった時代の事を決して忘れてはならない、あの頃の思い出を教訓を無駄にしてはならない、と自分に言い聞かせています。
お陰で長生きをしてその間大勢の方々にお世話になりながら、お付き合いの中で得た諸処の体験を活かし、少しでも役立つように心がけてはおりますが、ややもすれば忘れがちな昨今ですので、自分なりに思い出や記憶に残っているものを書いてみることにしました。
富永 弘

上折立の生い立ち

上折立は今から約三百年程前に、当時の折立村カラ分かれて上折立となったのですが、詳しいことはさだかではありません。
明治二十二年に町村制が施行され、一村の単位を三百戸以上と定められ、郡、町、村の基礎ができ上がった。
この年芋川、箕和田、うつの、下折立、折立又新田、上折立、大湯の七部落が合併して湯之谷村となりました。
その後明治三十三年に町村分合が行われた。これは県知事から県下の微力町村合併の要請があり、これに基づいて湯之谷村と吉田村が合併して現在の湯之谷村となりました。
ちなみに合併当時の戸数と人口は

吉 田 村 三七四戸 二五一六人
湯之谷村 二三〇戸 一五五七人

湯之谷村内訳
芋   川 五一戸 三二一人
箕 和 田 一二戸  八一人
宇 津 野 六〇戸 四二四人
下 折 立 五七戸 四二四人
折立又新田  五戸  四一人
上 折 立 二五戸 一六三人
大   湯 二〇戸 一二五人

合併後は役場は大沢に置かれ、お粗末でしたが昭和二十年にやはり大沢で百五十メートルほど上の現在地に改築され(その後も数回増築をし現在に至っている)改築当時の村長は折立又出身の星清右衛門氏でした。
さて、我が上折立部落は、湯之谷村の最東部に位置し、佐梨川沿えに約百ヘクタール余りの帯状地域で標高約二五〇メートル、やや南東向きの至って日当たりがよく、前には清流佐梨川が見い、そして魚沼三山の駒ケ岳の嶺峰の壮観を眼のあたりに眺めることのできる恵まれた土地です。
なおこの上折立部落は戸数は少ないが長さは約二キロメートルにわたっており、ちょっと中断して小字の湯中居と栃尾又からなっていて、今は電話が入ったからよくなりましたが以前は部落のまとめが大変でした。

現在の世帯数 三八戸 約一六〇人
村営住宅(栃尾又) 二〇(位) 約五〇人
田 一〇町歩位(三〇年代一三町歩位)減反面積一町歩位
畑 一町五反歩位
山林 人工林 四五町六反七畝
天然林 五一四町二反九畝
ほかに原野 若干 切替え畑 若干

人工林のうち大半は村行造林である。また、堺の沢から津久野岐までの四キロメートルの間の山の峰から外は他町村の山、また、津久野岐から奥は国有林、湯之沢の奥も国有林、栃尾又ウケズの上は宇津野の地分、佐梨川から向かいは大湯地分、堺の沢から下は下折立地分であり、村中を国道が、栃尾又へは県道が走り、小出までは定期バスが通っている。(約一〇キロメートルを一日十回位)高速道路のインターは小出町干溝で約一〇キロメートル、新幹線浦佐駅へは約一七キロメートルと、交通の便もまあまあと言うところでは無いかと思います。
一つ喜べないのは豪雪地帯だと言うことですが、それでも以前とは違って無説道路になったから冬でも交通の麺では支障はありません。

明治五年に学制が施行されました。あまり定かではありませんが明治八年に下折立の民家を学校ととして使用し、下折立、折立又新田、可児折立、大湯の子どもたちが通ったのが最初らしい。
その時分は全部の子供が行くでもなく、又子守しながら行くものもあったとか。
そして明治十一年に湯之谷港と改められ、明治十三年には校舎を下折立に新築、始めて事務教育制度を改めて認識し、適齢者は入学するようになったようです。
戦時中は青年訓練としての教練も行われ、女子は補修科として裁縫の授業もあった。
戦後の昭和二十三年に校舎を増築、ついで二十五年にも増築、当時三学級で複式授業が行われていました。
しかし昭和三十一年には村の方針で芋川小学校との合併を余儀なくされ、合併し東湯之谷小学校となり、初代校長は二年前から芋川小学校長をしておられた、刈羽郡内郷村出身の児玉健治校長で昭和三十六年三月まで勤務されました。
また、昭和四十七年には学校のシンボルでもある立派な校歌が制定されました。

東湯之谷小学校校歌
俵山 喜秋 作詞
小杉 誠治 作曲

一 朝焼けの 駒ケ岳
 学ぼうよ雄々しいあの姿
 東湯之谷小学校
 力合わせて どこまでも
 進む僕らだ 私らだ

二 夕影の 佐梨川
 習おうよきれいなこの流れ
 東湯之谷小学校
 心ゆたかに 夢もちて
進む僕らだ 私らだ

三 湯の花の 匂う里
 謳おうよ栄えあるその歴史
 東湯之谷小学校
 深雪しのいで たくましく
 伸びる僕らだ 私らだ

私達の東湯之谷小学校は、湯之谷では一番東2位置し範囲も広く、以前は分校が二校もあった、大湯分校と銀山の鷹の巣分校です。
大湯分校は最後は冬季分校でしたが、終戦後は廃校となり、鷹の巣校は銀山の住民が電源開発等により、生活様式や社会情勢が変わったことにより下山し、夏場の仕事にだけ行くものが多くなったため、殆どが湯之谷の以西に住居をかまえ生活するようになったので、学校は昭和四十三年三月三十一日閉校となりました。
以前冬季間は孤立状態になったのですから、その不便さは私達の想像などつきません。
銀山にはずっと以前は学校が幾つもありましたが、最後に一番奥の鷹の巣校が残ったのでした。
この学校には赴任された若い先生が、秋休暇をとって事前に盲腸をとって銀山に登ったという話を聞いておりますし、その後だったと思いますが鷹の巣の人がその盲腸で一刻を争う事態になり無線で連絡がついたとかで県警のペリで病院に運び助かったことが一度ありました。
現在では学校もなく、住民もみな下山しましたのでそうした心配はなくなりました。
昔は小学校が四か年だったとも聞いているし、戦前までは農繁期等は子守りや田掻きの鼻っ取りで学校を何日となく休ませられることは誰しも経験のあることでしょう。
さて、現在はどうでしょう。勉強ではありませんが、まず三歳から三カ年保育所、六歳から小学校中学と九年間の義務教育、高校進学は昭和三〇年頃はまだ少なかったがもう今は当たり前になり、大学や短大、専門学校への進学率が高くなり、明治大正生まれの年寄りには全く驚きです。
それに又通信による種々の趣味や勉強をする方も多いようです。誠に良いことだと思います。
なお、良いことには、ラジオやテレビでも、やる気があればさまざまな勉強が出来る便利な世の中です。


続く・・・

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