上折立集落

「年寄りのたわごと」 続き

前記事はこちら

産業について

上折立の産業

 以前は、米作り、養蚕、ぜんまい取り、炭焼きなどが主産業で生計を立てていたが、時代の変化で生活様式が大きく変わり、昔のように込めと味噌ががればなんとか生活ができるなんて時代ではなくなり、何から何まですべてのものが金ですから、昔の事やものにこだわってはおられません。
現在打破米作りも採算は取れないが、やるしかない状態、ぜんまいはまあまあ取りさえすれば金になる。あと炭焼きも、養蚕も、家畜も駄目になったので、職種もすっかり変わりました。

農業 専業 一戸 稲作、ぜんまい取り
    同 一戸 稲作、きのこ栽培
自営業   一戸 電気屋
      一戸 給油所
      一戸 理容所
旅館業 既設 三戸
       二戸 終戦後開業
他に転職した主な職業は、国家公務員、地方公務員、役場、農協、その他会社員、日雇い業
その他は兼業農家

 右のように男女ともよそに出て働くため、昼間は家には殆ど年寄りだけとなりました。
また、次の産業は部分的なものですが、

家畜では、肉牛、養豚、キノコ栽培、狩猟、川鱒漁業等で、養豚など最盛期には上折立の人口より多かったことが数年あった程でした。
狩猟では、熊狩りに現在でも数人は行きます。
肉牛、乳牛、養豚は全くやっておりません。川鱒捕りも革がダムに変形したのでできなくなりましたが、昔は土地が狭いので仕事場の確保に苦労されたことが書物に残されています。

川鱒を取る権利の区域と期間人員は、
区域 浪拝みーハヨ止めの滝ー大津又一円
期間 十日間
人員 自在館、甚右衛門、勘右衛門、喜右衛門、長左エ門、八兵衛

狩猟は、昭和四十年コロまでは兎が多くいてかんたんに手に入るのでよく食べたものですが、最近は殆ど見えなくなったそうです。
熊狩は、今でもこの部落からも二、三名は行くらしいが、以前程は捕れないのではないかと思います。 
何せ熊の胆の価格ですが昔から一匁米一俵の価格と決まっていたのが、現在では米の価格が下がっタこともあり、品薄のせいなどで米の値なんて関係なくなかなか手に入らないのが実情ではないかと思います。
それから戦時中のことですが、銀山の北の又(骨投)に開拓者の集落があって上折立からの入植者は横道、富屋、善七、桶屋の四名、下折立から六名程で、一人あたり土地三町たん三反他に共用として一〇町歩を与えられた。そして開墾と穀物の生産、木工品の制作に励んだ。しかし予想ほどの成果は上がらなかった。
定かではありませんが昭和四〇年代に至ってこれからの土地は入植者に離農金が渡され開拓は一応終わりを告げたように思われます。
その後その跡地に様々な計画を立てて始めたがなかなか進行せず、現在学習院大学の土地とちょっとした建物があるだけになりました。
さらにここで付け加えたいのが海外への出稼ぎです。
大湯は今こそ立派な温泉地として栄えているが、明治大正の頃は木呂切りや養蚕をやっていたが仕事が足りないため、さきに数回行っていた東栄館や大黒屋の主人の世話で明治三十六年八月フィリピンに行ったその時の一行は左のとおりでした。

 東栄館  主人  大湯 (陽一の祖父)
 神風館  主人  上折立
 喜右衛門 弟さ  上折立
 善 七  主人  上折立
 庄 内  弟さ  下折立
 五郎兵衛 弟さ  宇津野
 大 山  兄さ  大湯
 宝岩堂  主人  上折立
✕村上屋  兄さ  大湯
 三之丞  弟さ  大湯
✕六角堂  兄さ  大湯
✕只見屋  弟さ  大湯
 エビスヤ 兄さ  大湯
 住吉屋  弟さ  大湯
 馬場高次 他県  神風館使用人 
✕印・・・・・・現地で死亡

 当の東栄館主人はさきにハワイでの経験もあり一行の通訳兼班長格であり、作業は道路工事の三年の契約で、作業はきつく体を痛めて帰った人、また現地で三名も死亡したとのことです。
今でこそ気軽に外地に行くようになったが、当時出稼ぎに外地に行くことは、大変に勇気のいることであったと思い感心しました。
 産物の少ない狭い土地で大勢の人が生計を立てることは、なかなか大変だと思います。例えば働く場所の獲得とか、地権の争い、租税の関係もあり、その苦労が古文書等にも見られますが、何時の時代でも生きることはやはり大変なことだと感ぜられます。先代の方々に感謝する次第です。

昭和初期からの米について

私達にとって米は貴重な主食であり、また天候に左右される作物なので昔から狭窄で生活に苦しんだ話が多くありますが、その米について少し書いてみます。
昭和九年は大雪のため田植えが7月に入ったようだから大凶作でよく一〇年の飯米が不足で苦労した。政府はこれに対し救援対策としてコッめを貸してくれました。

 貸し出しは、作付面積と家族構成を基準にして量が決められられ、返済は三カ年のうちに必ず籾の現物で返すことになっていました。

 小出駅から上の原荷運びそこで渡し、返済の籾は役場の向かい現在の郵便局のあたりに倉庫を新築して、その中へ返済し急場を救われた事がありました。
 また昭和九年頃から米の扱いについて、国は統制を考え始めていました。
 そして昭和一七年戦争にため生産が減り始めたので、国は食料増産を強く呼びかけたり、一方食管法により米を厳しく取り締まりました。また戦時中は全国民が食糧不足に耐えました。
 戦後はその教訓を生かして増産に励み、国も区画整理や近代化に協力し機械の購入にも助成したのでようやく米は増収できるようになりました。
 しかしたくさんになれば余ることも当然生じ、今度は国の古米が増え出しました。そこで打ち出したのが減反政策、これが始まって年々減反割当が増し昭和六〇年頃には減反率一八%にまでなりました。
 転作作物はなかなか適当なものがなく、それっきり荒れてしまった田も出来ました。(助成金の出る転作作物は、大豆、小豆、里芋、蕗、鯉の飼育等)

 そして平成五年たまたま全国的の冷夏に見舞われ何十年らいの凶作となり、国は備蓄米が欠乏し、輸入米により不足を補うことにし年内から外米が港に入り始めました。
 最近の一年間の日本の米の消費量は役一千万トン、平成六年度の不足量は二百万トン、この補充にアメリカのカルフォルニア米、タイのインディカ米(もち米)中国のシャオチン米などが入ったわけです。ちなみに当時の新聞によると
 
 カリフォルニア米
   生産者価格  (十キロ)   四百九十円
   日本に着いて (十キロ)   七百五十円
   消費者には  (十キロ)  二千八百三十円

この差額金は農家の共済金に当てる。・・・とのことでした。
 こんな状態で、消費者は外米は安いけれどもまずくて食べられないと言い、業者は国産米の買い占めをし、値上がりする、生産農家に米泥棒が入る。
 とにかく大変な騒ぎ、この平成五年産のコシヒカリ六〇キロをなんと五万円で売った人もあると聞きました。

 しかし最近政府の買い入れ価格は殆ど変わらず、昨年十一月には長年続いた食管法が新食糧法と改まったので、これから農家が近代化農業に対応していくには、大変な苦労と悩みがあるでしょう。

誇りとなるもの

 わが栃尾又には天下に誇る名湯ラジウム温泉があります。
この温泉は、今からおよそ千二百年に発見、開湯されたと伝えられ、その頃から四季を通じて浴客が絶えないと言われ、特に銀山で銀の採掘の頃は大変な繁栄ぶりで、大正四年に内務省が検定の結果、ラジウムエマナチエンが含まれていることが発表され、以来栃尾又温泉は一躍本邦有数のラジウムの名を高め、特にリューマチや婦人病、子宝の湯として知られるようになり、温泉というよりは湯治場として多くの人達から利用頂いております。

 なお、昭和五十九年に数十段下にあった浴場を上に上げ、温泉に、温泉に楽しみながら健康づくりの出来る、多目的保養センター「クアハウス」となりました。センター内には、のぼせ防止のかぶり湯、マッサージ効果のある泡沫湯、圧注浴、鎮静、鎮痛、催眠効果のある寝浴、そして全身浴、部分浴など、特徴のある湯を配してあり、症状に応じた湯を単独あるいは複合的に利用することにより健康回復を図る事ができます。そして程よい休養と適度の運動が全身をリラックスさせ、成人病予防に効果が得られる等々様々な効果がある立派な温泉です。

 また、この温泉が、いかに古くから大勢の人たちに利用されたかを如実に現す物があります。それは浴場までの間の石段の減り跡です。石も様々ですが三センチもの窪みがはっきりと残っていることです。この石段を踏んだ人の数、私の試算ではおそらく延べ数千万人の数に及ぶと思われます。これには全くの驚きです。

 また、栃尾又にはもう一つ、耳よりの由来があります。それは霊験あらたかな薬師如来のお堂と夫婦欅と子持ち杉です。
 子宝に恵まれずに困っている奥さんが、この子持ち杉を跨いで薬師如来にお願いをして温泉に浴すと、間違いなく子供が授かるという、立派な由来でもあり評判の子持ち杉、ご覧になればわかるとおりいつも「スルスル」しております。このことは無言のうちにもきっと社会に大きく貢献しているものと思われます。こんなに人様に喜ばれる温泉が吾が上折立に湧いていることは、私達にとってまことに幸せであると同時に誇りでもあります。

子持ち杉余話

 もう三〇年も前のことだが、ある会合で開会前の茶飲み話でしたが、お嫁さんが三年も過ぎて子供がいないために離縁された話が出たら、そこで某氏が(ここでは名前は出せない)それだて、それだからそういう子宝のほしい衆がよく栃尾又に来るがんだて、と、耳よりの話をはじめた。

 実は俺がそう、そうした女衆が児持杉を跨ぐどこを見ようと思って、悪いこととは知りながら、私は夕食後の入浴は早めに切り上げ宿には帰らず、薬師堂の中に潜んで待っていた。たまたま月夜で杉や欅の枝の間からは薄明かりになっていた。湯の帰りに連れ立って薬師堂を拝んで帰る人はあるが、子持ち杉の方へ行く気配がなかなかない。

 十一時を回り夜も老けて静かになり下の川の音がきわどく聞こえるようになった。

 とそのとき一人の女性が薬師堂の前に来た。俺は格子戸から手を離し気づかれないように身をかがめて耳をそばだてたが鰐口も鳴らさず無言のまま深々と頭を下げ?しばらくしてお堂をあとにして子持ち杉の方へ向かった様子なので又格子戸につかまり、さてあの女性はどうかなと息を殺して見ていると、杉のそばまで行ってあたりを見回し、人の気配がないのを確かめたか、「ヨーイト」片足を出し杉の股を跨ぎ、着物の裾をくるりとまくり尻をあらわに出し杉の股に尻を「ペチャン、ペチャン」とおろし、おもむろに腰を伸ばし「さてさて、これでも子供が出来ねえば、はあアンサのせいだ」と言ってまくっ着物をおろしポンポンとチリを払って宿の方へ行った。

 俺はそのいとも真剣な動作と言葉に感動し、口には出さぬが、そうだそうだ、あなたの言うとおりだとそんな感じがしたと某氏が話されました。

 くだらないことを書き失礼しました。

奥只見電源開発

 これは私達には関係のない事ですが、栃尾又に雪や雨を観測する白ペンキ塗りの小さな箱型のもの(「百葉箱」というそうですが)が四本の木の杭の上に載っていた記憶がありますがあれは元高田測候所からの依頼でやっていたのだそうで、あんな事がいざというときに貴重な研究材料の基になったことをあるご人から聞いてなる程とうなずきました。

 それはあの奥只見電源開発にちょっと関係があるので、あの空前の土木工事について概要を記して見ます。

 まず昭和二十八年に電源開発審議会で開発が決定され、以来調査測量から、次々と工事が進められました。

   そのあらまし

   ダムの高さ  百五十七メートル
   湛水面積   千百五十万平方メートル(中禅寺湖より二万平方メートル広い)
   ダム貯水量  四億五千万トン
   発電出力   三十六万キロワット(年間五億万キロワット)
   総建設費   三百九十億円

 当時の物価は急激にどんどん上昇する時代で、昭和二十年から僅か三年で葉書が十倍の五十銭となり、昭和二十三年に米が千四百八十円(一俵)が昭和二十八年では三千三百八十円の価格でした。(金の価値につき参考まで)この大工事につき、小出の材料集積地から八崎までの三十二キロメートルの間に七千人の労務者が配置され、上折立地内でも電源開発事務所をはじめ四つの事務所と千人以上の労務者が輸送道路から段切り工事に当たりました。

 大体以上のような大工事が行われるについて、意外な関係方面から調査があり、そのとき栃尾又での雨雪の観測による様々なデータが調査の参考資料になったと聞いています。つまり気象状況によって、予定どおりの発電が出来得るかの調査だと思います。(金融関係人)

 その観測は現在はやっていないそうです。

その他戦後変わった部分的なこと

旅館の急増

 終戦後、大湯の湯元館、東栄館、大崎屋等が栃尾又地内から下手(小字の地名)にかけて営業をされ、最近は大湯ホテルはヘツリ(小字の地名)にきましたし、また、上折立でも三峡ホテル、こだま旅館と、最近は一挙に旅館が増えますことに喜ぶべきことであり、同時に益々の繁栄を願っております。

スキー場の建設

 昭和三十五年に湯之谷村が栃尾又居平(大湯対岸)にスキー場を建設して村で運営していたが、昭和四十五年に大湯栃尾又温泉事業に運営を委託されました。

津久野岐水路の大改修

 昭和三十五年に津久野岐水路の大改修が始まりました。これで以前からの水利権や維持管理等を、多目的水路として冬場も利用できることに変わった。同年、下手の二十四名の共有地を大湯湯元館に売却しました。

老人クラブの設立

 老人福祉法が施行されたことにより昭和四十三年に老人クラブが設立された。初代会長に富永吉五郎氏就任されました。

団地造林始まる

 昭和四十八年から三カ年計画で津久野岐の奥地に焼く二〇町歩の造林(杉)が出来た。これについては木炭も木呂(ころ)もいらない時代になったので、雑木林に杉を植林して山の活性化をと、当時林業事務所湯之谷担当の中魚沼郡十日町出身の風間氏の奨励によって、有利な団地造林をお願いし一挙に約二〇町歩の植林が出来、それも大体村行造林として現在森林組合で手入れをやっております。

集落センター

 昭和五十二年に、それまでの公民館を現在地に移転改築集落センターと解明され田。詳しく申しますと、昭和十九年県道(現在の国道)が大改修によって以前よりもずっと部落の近くに移動し、便利になりましたが、戦争たけなわ、物資は不足し、米の調整等に燃料の配給がなく、そこで電力を使って共同作業場で作業することになり、併せて二階を会合に利用できる公民館が昭和二十年に、喜右衛門県道向かい側に初めて建てられました。下は作業場と消防の器具置場、火の見櫓も出来、当時は立派なもので好都合でした。

それから三十年もたつうちに建物は老朽化し、反面社会情勢の変化で公民館の利用度は高まって手狭になり、駐車場も必要になったので昭和五十二年に、現在地に移転改築して集落センターとして最近では葬儀法要などにも利用できる立派な近代的なものになりました。

無接道の階段トンネル

 昭和五十九年に村道大湯五号線(居平から大湯へ下る坂道)を防雪工事として無雪道の階段トンネルにした。

農作業について

冬仕事

 世の中のことが如何に変わろうとも雪の振り方は今でもそんなに変わりません。昭和初期の頃は米拵え(こめこしらえ)がお正月近くまでかかり、この頃から冬本番で朝夕の道踏み、屋根の雪掘り、その合間には藁仕事、当座に履く藁ぐつ、スッペ、蓑、荷縄、草鞋、足中、タス、筵(むしろ)など農作業に必要な諸々の物を作りました。

そして三月に入ると天候の具合によって外の春仕事が始まる。まず雪の多い年は土撒き、肥引き、薪切り(ぼいきり)苗代の雪消し、これらが雪消までの仕事でした。

ボイ切りの「メンツ」のうまさ

 朝「メンツ」にごはんを詰めるとき生の塩鱒を一切れ、ごはんの間に入れる。跡は味噌漬けや漬菜位のおかずですが、さてお昼時になると、あったかいごはんの中にはさんだ塩鱒が程よく煮えて、塩辛い味がご飯にしみこんでそのうまいこと、もう少し食べようかな、もう少し、いやこれ位にしてあとは中飯の分だ、まだ食べたいが中飯がすくなくなるからやめようと思い切ってやめて、朝のうちに雪のタンコロを棒に挿して「スコップ」に垂れさせておいた冷たい雪水を呑むその又うまいこと、今でもときどき思い出しますが、あの味は忘れられない。これから先あのようなうまい物に出会うことはおそらくないと思います。

現在の冬仕事

 米拵えはもう稲刈りが終わると同時に終わるので楽なもの、藁仕事も、道路は舗装され、消雪パイプによって無雪だから、道踏みをすることもなく藁の履物も必要なく、何処の家でも青畳の上に住んでいるから筵もいらない。蓑はゴム合羽、田には素足だったのが水田長靴、蚕も買わなければ、炭も焼かないので縄もいりません。

 また、草刈りもしないので肥引きもなく、ボイ切りや木呂切りも必要ない。現在の社会は日常生活も近代され、電気、ガス、灯油、等が使用されとても便利な時代となりました。

春から初夏の農作業

 まず雪の消えたところから、次々と野菜畑を耕して種蒔きや植え付けをする。

田の耕起(田ブチ)

 昭和の初期のころの田ブチ(湿田)は「ブッコノキ」と言って手ザルのついた柄のそった平鍬で、田舎部を割って土を一株ずつ起こすやり方で、一人前の人で一日に三十刈り(六畝)、乾田は三本鍬で一日一反歩、と言われましたが大変な重労働でした。

田掻き

 馬にマングワをひかせ、鼻っ取りの誘導と、尻取りの操作の、三者合体での代拵えです。

 この田掻きの前に堆肥配りをするのですが、湿田の肥配りがまた大変でした。

田植え

 時期は大体6月十日頃から十日間位で終わりますが、水苗代なのでまだ水が冷たい、また朝夕は蚊に刺される、「カビ」で蚊をよけながら朝食前から苗取り、田植えは枠を転がしてその枠の跡に植えます。一人一日一反と言われていましたが、そんなに植えられないものでした。

農繁期

 この頃になると、ぜんまいを始め山菜採りが始まり、田に畑に蚕に山にと、どれもが時期を逸してはならない作業ばかり、一年中で一番忙しい文字通りの農繁期、からだが幾つあっても足りないと蚊、猫の手も借りたいなんてことをよく聞いたものでした。

 そんなわけで農家の重要産業の、しかもいちばん大切な時なので、小学校では「田植え休み」「蚕休み」渡渉して児童を各一週間位ずつを休校にして家の仕事を手伝わせたのです。

農作業も一段落

 ようやく田植えも終わり、蚕も半夏(七月二日)には上蔟、一週間くらいで繭になる、蚕の後片付けをして、中旬頃は「蚕あげ}と言って餅を撒き、蚕の神様に供えて祝う。家から他所へ嫁いだ親族も来て泊まったり、一番大変な忙しい時期を達者で働き抜いたことを喜びあったものでした。

 また、男衆はこの頃を「田休み」と言って次のように決まりよく休んだり、共同作業をしたりする習慣でした。

  第一日目  田休みで全員休む。
  第二日目  山道刈りで男は総出で一日中、山道拵えをする。
  第三日目  田休みで全員休む。
  第四日目  カッチキ刈り これは山桑などに肥料の代わりに草を刈って敷いてやる。
  第五日目  田休みで全員休む

 この時点から山の草刈りを始めてよい申し合わせで、山道の手入れをして山仕事の準備などが共同で行われました。
 ここで山菜について付け加えますが、昔、山分けをした時に「下草入り会い約定書」が出来、つまりぜんまいから山の芋、ヒロロ等は誰の山の中から採ってもよい。また、炭を焼く場合など行く道中に他の地分を通らねばならぬときにはお互いに便宜をはかり道をきらせること(人道)等を条文に明記してあります。

新しく変わってきた農作業

耕起と田掻き

まず田畑の耕起では、昭和十年過ぎた頃から乾田では馬耕が始まり、田掻きはマングワから歯車に変わり、馬とともに和牛も活躍しました。

 そして昭和二十五年頃には、「耕運機」なるもの、つまり田ブチも田掻きも出来、それも一人で出来る、まことに重宝な機械を使用することになり、一日五反歩も六反歩も出来るようになった、それが四十年頃には、耕運機の数倍も能率のよい大きな「トラクター」なるものが登場し、またたく間に代が出来ました。

田植え

 苗代は以前とは違って「おか」で、ハウスの中、それも最近では大半は農協から出来た苗を買って、植えるのは、昭和四十年以降は機械植え、これも最初は二条植えが、だんだん大型化し、四条、六条、八条とそれも乗用の機械も今ではポツポツ見えるようになり、とにかく以前とは変わり、田作業が始まったなあと思うまもなく田は一面に青田になるという、明治大正時代に生まれ、朝の一食は焼餅を食べて、ブッコノギをして馬や牛の尻を叩いて田掻き、腰のやめるあの田植えをしてきた吾々には夢のように思われます。

夏場の農作業

 田休みが終わるといよいよ夏本番に入る。やれやれと思っているうちにもう田の草が待っている。
 切り桑畑では根返しを待ちながら新芽を出している。
 夏蚕も始まり、野菜畑でも土寄せを待っている。
 気温も日一日と上がってくる。こんな時期になって思い出されるのがあの田の草取りです。
 その除草ですが草の伸びないうちはに取れば、楽だしはかどるのはよく承知はしているが、それがなかなかあれもこれもで、手が回らずつい草を伸ばしてしまう。さあ草を取るのに力がいるようになる、腰はやめる、熱くて汗は出る、涙もでる汗を拭きたくても泥田の中、容易には拭けず汗が眼にしみてくる、あんな辛い仕事もあったっけ。

 忙しくてそれぞれに手入れができなくても相手は休むことなく伸びる。田の草取りも、もし稲草が口が利けたらきっと「俺の根が切れて困るからもうやめてくれ}と言われる頃までも田の草を取っていたこともあります。

 以前は田植えの時期が遅れたから出穂はお盆頃になった、そして、その頃までには夏蚕も終わり、野菜類も成熟し、やがてお正月に次ぐ行事のお盆と夏祭り、農作業も一休みで仏様の供養や氏神に息災と豊作を祈願することにより、今までの苦労を忘れて心身とも安らぐそんな一番よい時期でもあります。

 朝の草刈りは休みなしだが、お盆過ぎから畦草を刈って干す干し草刈り、そして馬を飼っている家では、「刈り返し刈り」なんてこともしました。これはお盆過ぎの天気を見はらかって山へ行き、よい草の纏まってあるような処を見定めて、草を借り倒してその場で干し、よく乾いた時点で束ねて持ち帰り、冬場の馬の飼料にするもの、乾草だから「カサバル」それを細い山道を背負って運ぶのが大変でした。

 女衆はお彼岸前後から「ヒロロ」抜きをするのですが、お昼持ちで行き夕方までに背中一ぱい背負ってきます。

最近の夏場の農作業

養蚕はやめたし、田の草取りも除草剤の散布、病害虫の防除薬の散布、畦草は機械刈り、時には除草剤を使用することもあり、稗抜き、溝掘りなどによって稲草は立派に成長し、実りを待つばかりとなる。

 しかし、まずなんと言っても変わったのが減反政策でしょう。

 昔から田に出来るところは一坪でも多く田にし、一粒でも多く米を収穫することが吾々に与えられた使命と認識し、戦時中の食料不足が教訓にもなり、国も区画整理に補助金を出し、農具も機械化したため生産が伸びました。

 ところが、昭和四十四年頃から米が余り、これに対し政府は「減反政策」をはじめました。。つまり、田に他の物を作れ、それに対して助成金を出すからと、転作面積が割当られるようになり始めました。しかるに、平成五年たまたま全国的に冷夏による凶作で米不足、今度は外米を買うことを始め、これはこれからも続けるとのことです。

 先祖が遺した田を休ませたり、荒らしてまでも輸入をやめられぬとか。

秋始末

 十五夜をすぎるといよいよ稲刈りの準備に入る。
まず、「稲架かけ(はざかけ)」、「苫かき」から始まる。稲は彼岸に入る頃 早生の黒糯から刈り始めるが、一株ずつ刈り、二つかみを一把に縛り、畦に並べ、夕方は畦の稲を背負ってハザまで運び出し、二人でハザに掛け、天気回りがよくても一週間から十日ほど干す。乾いたところで稲を外し、六把から八把ぐらいずつ束ねて運び、家のまわりに、直径二メートルほどの丸型に積み上げて上に苫をかけて置き(この稲ニオが五つも六つもできる。)初雪が降るようになるまで炭焼きをし、炭焼きをやめてから茅刈り、ボイ背負い、冬囲い、冬ダナ掘りをしてそれから家に稲を運び入れてやっと本格的な稲こき米拵えに入るのだから、人での少ない家では炭はたくさん焼けないし、稲ニオの上には行きが積もっていることが多い。

 そしてお正月までに米拵えを終わるのに大いそがしでしたが、戦後昭和三十年頃からは機械化が進み、脱穀機、調整機が入り、発動機、電化等によって米拵えは大変早く終わり、以前よりはお正月前にゆとりができました。

最近の秋始末

 最近では稲刈りも米拵えも、コンバイン、ライスセンターの利用によって十月中旬には全部終わるので、以前のように稲ごみにまみれなくても済み有難いことです。そして茅刈りも、ボイ背負いも必要なく冬囲いはするが、これも頑丈で立派な家になったので簡単でよい、しかし新しくやるようになったのが「秋ブチ」これはコンバインが稲刈りで稲藁を短く切って、田圃一面に敷いたようになっているから耕起して、土に混ぜておくことですが、みながやっているのではなく、労力に余裕のある人がやる程度です。

 大体こんな作業で秋始末も終わり、お正月を迎えるという以前に比べれば、まことに作業が少なくよりよい世の中になりました。


養蚕業について

 小出郷の養蚕は百六十年ほど前から、稲作に次ぐ農家の収入の大切な仕事として、飼育が行われるようになったと言われています。

それも小出の大黒屋の弥七夫婦「大弥」が宇都宮で製糸技術を習ってきて機械操業が始まって以来小出郷が養蚕に取り組むようになったようです。

 蚕種は福島の会津只見から来始めた。この頃(大正九年)の繭の価格は一貫匁三円四十九銭、種屋が藪神から小出にも出来た、又、八年に戦争が終わると、五年前の三倍にもなり十一円となりました。

 この頃、米一俵と繭一貫匁の価格が同じでした。翼九年には二貫匁と米一俵が同じになり価格の変動の激しい産物でしたが、大正年間に入り、湯之谷村井の口新田二、新潟県蚕業試験場小出支所が出来、養蚕業の振興に力を入れるようになりました。

その頃湯中居の養蚕戸数は十三戸位でした。

そして昭和六年頃の湯之谷村の養蚕農家は、五三四戸(繭の生産は、一二、五九四貫匁)でした。

 養蚕業が盛んになるにつれ製糸工場も出来た、小出では大弥の元祖から柳瀬、また近郷に小さい製糸家も出来、座繰りする家もあり、種屋から糸買い等商人も大勢になり、湯中居でも自分で生産した繭で座繰りしていた家も数件あったようです。繭は湯中居では昭和十五年頃からは農協を通じて小出の柳瀬製糸へ出荷していました。

 養蚕は僅かな期間(約三十日)に金になる良い仕事でしたのでそのために家を改造したり、最盛期には他所から「桑取り女」を頼むなどして増産に精を出しました、だから蚕と言わず「ボコサマ」と言っていました。

 しかしこの養蚕業も昭和十年頃から飼育が減りはじめ、湯之谷村では十四年には四百七十一戸に、さらに三十六年には、百六十二戸(繭の生産二、一一九貫匁)に減り、その後も繭の価格も下がり、昭和五十年頃にはもう飼育者はなくなり近郷農家の副業として大切な養蚕業は戦後の農業構造の変化と、経済の高度成長によって、百数十年の興亡を経て終結しました。

 現在は、蚕どきのあんな忙しいこともなく有難いことですが、あの忙しかった頃の事、繭かきが終わったあとの蚕あげ餅の味が懐かしくなります。 

金肥併用・害虫駆除

 米の生産に如何に力を入れたかを伺える大正初期の頃の珍しい記録を記してみます。この頃から米作りには堆肥に金肥(化学肥料)を併用するようになった。当時北魚沼郡で共同購入の肥料代金は五万円だったと聞く、又、堆肥舎の奨励、苗代の改良、品種改良、小作者の保護等、又農作物に害を及ぼす鳥獣類の駆除にも気を配り、その一例、役場で区長会で取り決め、次の価で区長が買い取った。

 蝗(イナゴの卵) 一升 五銭
 鳥 親      一羽 二銭
 鳥 子      一羽 一銭
   卵      一個 五厘
 雀 親      一羽 五厘
 雀 子      一羽 五厘
   卵      一個 五厘
 兎        一羽 一銭

又、日雇いの賃金も、農繁期から冬季間までを七段階に区切って決めた。それによると一番忙しい作付け時の一日四十五銭から十八銭までに区分けされていた。
 

製炭業について

 吾が部落は耕地が少ないため、製炭を副業または半専業ぐらいにやった人も一時は数人ありました。

 春、ぜんまいが終わると一休みして、お盆前からもう製炭の準備に取りかかるのですが、まず炭材の山を確保して道中の道を拵う(コシラウ)、それと窯築き(カマツキ)を完成させるまでには黒檀の場合などは十数日もかかります。この窯築きのいかんによって炭の質が左右されるだけに技術のいる大切な仕事です。

またその行く場所がいろいろで、遠い所は夜時十二時にならぬうちに出かけます。カンテラや角灯を提げてリヤカーの利く所までは引いて行くのですが、湯之沢や駄尾などは遠い方で、なかでも朝早い人は、栃尾又を通るとき湯治客が宿に帰るのに出会って、お早うと声をかければ相手は、おやすみと言うチグハグな挨拶が交わされる滑稽な場面もときどきあったそうです。

 また、炭焼きは朝早く起きて山へ行き、夕方は早く休むので、炭焼きの子は親の顔を知らぬと言った人もあるほどです。

また、炭焼きは一升飯を食うとも言われました。何せ働く時間が長いのに重労働だから無理もないことでした。

 終戦後従業者の復員で生産量が増し、したがって炭材に不足を生じ、湯之沢の国有林を下折立部落と奪い合ったり、無理にお願いして多く払い下げてもらうなどして生産も多くなりましたが、昭和三十二年頃を堺にして、減産の方向に転じ、日本経済の高度成長によるエネルギー革命が進み、家庭燃料も木炭の時代から電気や、ガス、石油、等に移行して、生産も年々減産の一途を辿るようになりました。

 ちなみに郡内の木炭の生産量は、次のとおりでした。

 北魚沼郡内の木炭生産量

         (十五キロ換算)   生産者     一人当り

 入広瀬村    九七、六〇〇俵   二四四人    四〇〇俵
 上条村     七九、一〇〇俵   二二六     三五〇 
 須原村     九五、八〇〇    一八六     三〇〇 
 広神村     九六、三〇〇    三二一     三〇〇 
 堀之内村     五、〇〇〇     二五     二〇〇 
 湯之谷村    九八、〇〇〇    二四五     四〇〇 
 川口町      四、四〇〇     二二     二〇〇 

 昭和六年4月から県営検査の実施(小出支所)
 昭和四十一年から県木炭協会発足検査を行う。
 (この頃はもう生産者も激減し郡内で六十四名となりました。)
 上折立の生産者戸数は十三木ぐらいでした。

製炭について加えておきたい事

 木炭は終戦頃までは大体白炭焼きでしたが、その後黒炭に変わり湯之谷では白炭は姿を消しました。

 北魚沼郡では木炭の生産量が他群より多く、米に次ぐ収入源で重要な地域産業の役割を充分果たしていました。

 そしてまた広神村池の平の佐藤伝十郎氏は、木炭窯の改良並びに木炭の品質改善に、技術家として戦前戦後を通じて、誰一人知らぬ者はなく、県下でも木炭については第一人者でもありました。

 また、この人はぜんまいの改良にも尽くされ、現在の赤干しぜんまいの創始者でもあります。

 このように重要産業に対しての立派な先覚者でもある台先生が身近におられたことは、私達にとって誇りでもありまた恩恵にも余計浴することが出来たことを感謝しております。

薇「ぜんまい」取り

昔から私達の地方ではぜんまいは、山菜のうちでも最高の産物として愛用されている高級食材であるため、現在でも時期になると、寸暇を惜しんで採取していますが、やはり社会情勢の変化によって以前とは職業や生活習慣が変わったため、山へ入る時間が少なくなり以前ほどはとれないらしい。

 そしてまた、以前は泊まり山の人達は青干しが多かったが、現在は殆どが日帰りになったため、家で赤干しをするようになりました。

また、炭焼きもなくなったので、山の木が伸びてぜんまいの出が悪くなったらしく、また家の近くや山でも栽培するようにもなり、なお、また変われば変わったもので中国からの輸入品も安く入っていると聞いています。

ゼンマイの生産量

 全国では    九万五千貫
 新潟県では   三万五千貫
 北魚沼郡では  二万一千貫
 湯之谷村では    六千貫
 守門村では     八千貫
 入広瀬村では    五千貫

 なお、参考までに消費地は

 関東方面    四万貫
 関西方面    五万五千貫

栃尾又での野菜売り

以前は、七月頃から秋までの間、湯中居の衆だけですが、母ちゃんやばあちゃん達が、夕方になると野菜類を見集め、翌朝は夜の明けるまでに栃尾又に着くように早く呼び合って一緒に行き、湯地の自炊客に売るに行くのです。当時は殆どが自炊でしたし、他所からは売りに来ないことになっていたので売れました。野菜類から特に色のよい茄子やキュウリの漬物など所望され、又、ときには湯治みやげにと「チマキ」の注文などもあり小遣い稼ぎにはうってつけの稼ぎ場でした。しかしこれもやはり世代の変化によって、お客の方でも、受け入れ側でも、自炊を喜ばなくなったため売れなくなり、昭和四十年頃めっきり減少し、その後移動販売車がきましたが、これも商売にならなかったようです。

風習その他について

冠婚葬祭

 婚礼

 結婚については驚くほどの変わりよう、まず第一に昭和初期のころまでは、自分の生涯の相手を、自分以外の人が選んだ物ををもらって一緒になった方が多かったようです。私もその一人ですが、このことは弱に今の若い人たちが昔の人のことを驚くのではないでしょうか。私も含めてですが、よくまあ我慢したのか諦めたのか」、または一目惚れするほど器量が良かったのか、いずれにせよ一面識もなかった人と一瞬の間に結婚をきめるなんてとても勇気のいることですが、今の人達には出来ないことでしょう。

 現在はなかなかお互いに慎重で、納得の行く人でなければ絶対に駄目だと言うことのようですが、そのほうが間違いないでしょう。

 そして以前は私ども田舎では結婚式なんて「ハイカラ」な言い方ではなく、嫁やり、嫁取り」、婿やり、婿取りと言ったものです。

 現在では立派な式場で、両方の親類知人が一堂に集まり二人の結婚を祝福しなお、双方の親戚の紹介をすることも非常に意義あるよいことと思います。

 しかしやり方がだんだん派手になっているように思われます。

 新婚旅行についても、いなかでは以前はやらなかったと思いますが、今ではそれこそ当たり前、それも最近では海外行きが多いとか、まことに結構なことだと思います。

 葬儀

 葬祭については、以前は人が亡くなると部落の大勢のお世話にならなければなりませんでした。

 それは交通の便も悪く電話もなく物資の供給の点でも今ほど進んでいなかったので、労力と時間が必要なためみなさんがお互いに協力し合う申し合わせをしていたのです。その協力事項は、菩提寺への告げと、壇道具・長柄等を運ぶ、親類へのお告げ、村告げ、火葬場の整備、出棺から骨あげまでの作業等をお願いしたのです。

 それが戦後徐々に総てのことが近代化し、例えば火葬場は戦前は各部落でその都度棺を燃やすだけの薪を準備したのです。それが戦後は折立校区共同使用の火葬場を元折立小学校の道路下に建設して利用するようになり、昭和四十二年に小出郷消防衛生組合が発足して大沢に近代的な火葬場が出来、さらに最近では立派な霊柩車で行かれることになり、私も長生きしてよかったなと思います。また交通は昭和四十三年に県道が舗装され冬場でも定期バスが通り、この頃は自家用車も持つようになり、電話は昭和四十一年から三カ年で上折立全戸に入った。だから以前とは全く天地の違い、物資の流通もよく電話一本出何でも届き、東京へ行っている子供でも今夜の電話出明朝にはもう玄関に「只今!」というわけで冬場でも泊まり客は少ないし以前のような「お非時」(会葬者に出すしのぎの食事)もないし、戦後は葬式のお経は全部家で終わらせるから長柄(僧侶用の赤い大きな傘)をさして火葬場へ行くこともなく時斎(おときー葬式当日の食事)も殆ど自宅でやらずに仕出し屋や集会所などでやり、料理も魚を使用した料理が仕出し屋から直接その場に届く、と言うまことに手のはぶける結構は事に変わりました。全く以前やってきた事を思うと、申し合わせとは言いよくまあお互い協力しあったものだと感じられます。

 何せ「告げ」に行く人達に握り飯を作り持って行ってもらう、冬場などはカンジキを用意しての二人連れ、遠い所は堀之内の田川入とか、広瀬谷広神とか南郡の大和町などその土地に少しでも詳しい人を頼んで行ってもらう、また菩提寺の方丈が年寄りの場合は冬場は橇で送迎して、宿泊するのでその接待、料理は計画の献立表により一切を限られた時間のうちに行われるのだから大忙しの大変な仕事でした。

 このように何事によらず大勢の人達を寄せて行事をやることを俗に「騒ぎ事」とはよく言ったものです。今では以前のように忙しくもなく又騒ぐこともありませんし、そしてまるっきり環境が変わり、殆どお勤めの仕事をもっているから、自由に何日も休むことも不可能な時代でもあり、やはり時代に合ったやり方が必要なのだと思います。

昭和初期の頃の衣類

 この時代は今から考えれば、なんとお粗末なもの、アオ(紺)や、縞のサンパクやモンペ、上はそれに似合った縞や絣の仕事着、足は素足家にいる時の長い着物や夜具は殆ど木綿もの一色、さらに戦時中は衣類も極度に品不足になり、買うには縫い糸にいたるまで切符制で不自由をしました。それに加えてもともと物をだいじに質素な生活に馴れているから、弱った部分や穴はあて継ぎをこまめにして着たものでした。このごろは「あてつぎ」をして着ているのはテレビドラマや時代劇などでなければ見られなくなりました。

 終戦後しばらくして少しずつ品物が出回るようになり、世の中が落ち着いてきて品物も良くなり、派手にもなり始め、田舎でも洋服の着用が多くなり、男女ともズボンに上着セーターにジャケツ、マント、角巻から外套、コート、アノラック、箱物は、ゴム靴、革靴となりました。私どもの部落ではネクタイ利用の元祖は栃尾又自在館の尚夫氏と横道の星清一氏でした。現在はどこの家でもネクタイの二十本や三十本はあるようになりました。

 また、冠婚葬祭には礼服や喪服に依存する人が多くなり、貸衣装の業者も増え自分の好きなものを借りて身に付けられ、便利になり、また、田舎ながらも流行など都会におくれることもなくなったように思います。

食生活について

 昭和初期は申すに及ばず、戦前戦後当時の食糧不足の話をしても、もう今は若い人達には全然通じないと思います。

 戦前でも私共は米は沢山あっても、それに比例してイリゴ(屑米)も沢山あるからそれを冬季間に石臼で粉にして、糧を入れ餅に搗いたり、焼く餅(餅と言っても杵で搗かずに手でこねて丸め、囲炉裏端の熱灰で焼いたもの)にしたり、それでも時にはご馳走ぶりに中に小豆を入れることもあった。こんなものを冬から田ブチの頃まで朝の一食は食べたものでした。腹もちが良いなんて言うが実は消化が悪いのです。昭和十七年から食料不足が始まり、ついに米は配給制となり、生産者も消費者も消費量を制限され、余分は全部供出させられ、しかもジャが芋、大豆なども米に換算され配給されました。

 日本国民にとってこれほど食料に窮したことは未だかつてないでしょう。そして米だけでなく副食物についても同様、なにせ五体満足の人は全部戦地や徴用にかり出されたましたから無理もない。

 魚肉類から、塩、砂糖、酒、煙草と全部配給制でした。

 それでも戦地での人達に比べたら、食べられるだけでも有難いのだ。と私は思いました。食料も弾薬も続かず、木の実や草の根を食べながら戦いに耐えた兵士達の事を思えば私達の苦労など物の数ではない。そして戦地や原爆で大勢の方々が犠牲になられた事等まさに開闢以来の歴史に遺る大変事となるでしょう。

 終戦後、ポツポツ物が出はじめ、やがて米の配給制も自然になくなり、復員などで人手もも多くなり、食管法はあっても、ある程度自由に買うことが出来るようになったり他の食品も出回り、世界情勢も変わり、輸出入が活発になり現今では、魚類から果物野菜まで四季を通じ、金さえ出せば何でも手に入る世の中になりました。

住まいについて

 昭和二十年頃の家屋は「茅葺き屋根」が栃尾又で三棟、湯中居では十五棟位あったのが、物が出回るようになった昭和三十年頃から、ポツポツ改築が始まり、昭和の末期までには母屋で「茅葺き屋根」は二軒だけ、それも茅の上にアタン張りで、あと全戸が改築され立派な家に住むようになりました。

 以前は土間があり、土の上に籾殻や藁を敷き筵、茶の間は板の上に筵か茣蓙(ござ)、座敷でもお正月かお盆でなければ畳など敷かなかったが現在ではどこの家も、ふだんでも青畳の上に、そして囲炉裏もなく、従って煮焼きや暖房や風呂などみなガス、灯油、電気、夏は、暑ければ扇風機、また食品の保存には冷蔵庫、冷凍庫そして台所の水は、やまからの流れ水を水溜めから汲んで使ったのが、水道になりちょっと蛇口をひねれば水が出る、風呂もバケツで汲むこともなく、最近では便所も使用後はちょっとひねれば水が出てきれいに流し、その上贅沢な人は様式で便座を電気で温めるなど全く変わりました。

 また、玄関には生け花、鉢ものが飾られるようになり経済的にも気分的にも「ゆとり」ができたやに感ぜられます。

昔の茅葺き家屋の思い出

 家屋が雪国に対応した近代住宅に変わり、維持管理にも手が省ける、明るい住み良い住宅となりまことに結構なことです。

 しかし、私はときたま夢の中で懐かしく思い出すことがありますが、それは大きな茅葺きの家の中、広い間取り、太い大黒柱に高い天井、特に懐かしいのが、あの大きな囲炉裏のなかでの焚き火、鉤つけに大きな茶釜の口から出る湯気、間仕切りの柱や帯戸はいとも長い歳月を過ごしてきたかのように、なんとなくずっしりとした感を思わせる、そしてその横座には年老いたおじいさんが座っていた。

 現在の家ではそうした重みのあるような、落ち着いた感じはないようです。

 


   

水道について

 水道については、奥只見に電源開発工事が始まることにより、輸送道路が湯中居の山、堺の沢から津久ノ岐までの間の、中腹を通る工事のため沢の水を汚染するので、補償水道を拵らえてくれたのが始まりで(昭和二十九年)水道の仕様は湯之谷でも一足早い方でした。そんなわけでパイプも丈夫な「イタニット」を多く使っております。

道路関係では

 現在の国道は元県道で昭和十九年に大改修され、今の位置に移り、さらに昭和五十年国道に昇格され、「ヘツリ」からは栃尾又県道と改まり、昭和二十三年には見返り橋が出来ました。

昭和四十年耕地の区画整理により機械化、車時代に対応して道水路が拡巾されました。

 なお、昭和六十一年からその農道も随時舗装されています。

 そして部落内の道路も昭和四十七年に拡巾改修され、最近消雪パイプも敷設、街灯もつき明るく足元もまことに良くなりました。

 山道はこれも電発の輸送路工事のための、つまり工事用の仮設道路が西の沢、トトガ沢、津久ノ岐とに出来たものをそのまま遺してあり、なお、その後トトガ沢と津久ノ岐では、奥へ林道をさらに延ばしたので車が入るようになり、ウケズは植林を多くしたので地主と部落とが助成金で永久橋をかけ林道が出来、又湯之沢は砂防ダム工事のため村道を改修しながら奥へ進んで居ます。しかし小沢の道は修理も手薄になり、以前よりは悪くなりました。

あとがき

 大正昭和から平成初期まで、心に残ること、忘れられない思い出、古い時代のしきたりや農作業から、近代化した現在の状況まで記憶を辿りながら書いてみました。資料も乏しく記憶も薄らぎ、しかも二年かかって漸く出来上がったもので、年数や数字などあるいは誤差があるかもしれま線が、その点ご容赦下さい。題名も適当な文句が浮かばず、まずい出来そのままずばり「年寄のたわごと」としました。資料の一部を湯之谷村、守門村の各村史から引用させていただきました。

 この本は私の現行を、相模原市に住む弟がワープロで打ち、制作を東京小出会で昵懇の東洋プリント(株)社長那須美夫氏に依頼し、お陰で立派な本にしていただきました。厚く御礼申し上げます。

 平成八年十月十二日(八十三歳の誕生日)

 湯之谷村上折立 富永 弘

この本一冊 打ち込みを終えて

 当初固有名詞が多く出てくるし、当人の写真等もありある程度ぼかそうかと考えましたが、あえてそのまま記述することにしました。画像もスキャナで取ってみましたがうまく行かずデジカメで撮影しその場所に挿入しました

 一字一句 改行 句読点まで忠実に再現するように気をつけて打ち込みました。

 五つ 六つ 位でしたが、旧漢字使用してあり 読めない単語ががりましたが幸い おふくろの力を借りて無事に出来ました。

 終えてみて 当方も重なる部分も若干あり感慨深いものがあります。

 現在はまた情勢がこの記述よりも大きく変わったところもありますが、何より諸先輩方の並々ならぬ苦労 先祖に感謝するとともに、先人のこうした苦労の上に現在の我々の今があるという事を忘れてはなりません。

 平成二十年七月八日 現六十四歳

 魚沼市 上折立 星 義広

 

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。