広島原爆はナチス製 ベラスコの証言

引用元:この国は少し変だ!よーめんのブログ(日本こそ一党単独極右軍事政権でなければならない)

広島原爆はナチス製 ベラスコの証言  

2011年 08月 08日

広島原爆はナチス製 ベラスコの証言

昨日は広島に原爆が落とされた日でしたがその原爆はナチス製だったという話です。




左翼はすでにご存知の人が多いようですがナチスのユダヤ人大虐殺は眉唾物で広島原爆はナチス製というのが世界の定説になりつつあります。

この情報の出所は日本人の高橋さんという人が当時ドイツの日本側のスパイだったというベラスコという人に1980年代前半に接触して分かって来たものでおそらく同時期に取材しドキュメンタリー賞を受賞したNHKの取材陣も時期が同じなので知っていたのでしょう。

スペイン人のベラスコ氏は当時ナチスドイツの日本側のスパイでヒトラーの側近までしておりかなり有力な情報を駐スペイン公使館の三浦文夫さんとやり取りしていました。

その辺のやりとりの模様をNHKが取材していますがこの放送ではナチス製原爆の事は出てきません。定説を覆すのは問題があったのでしょう。後半④はウルウルする場面があります

貴重な物ですがNHKの物はすぐ削除されます↓要保存

お願い:英語等 外国語での翻訳希望
下記[私は日本のスパイだった]再アップしました。
私は日本のスパイだった①②
【大東亜戦争】日本の諜報組織「東」とは・・(01 of 02)

https://www.youtube.com/watch?v=-r6CdlaE2nA

私は日本のスパイだった③④
【大東亜戦争】日本の諜報組織「東」とは・・(02 of 02)

https://www.youtube.com/watch?v=OHq5noH-ZBs
ニコ動画
私は日本のスパイだった④ニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5040206

NHKがこの取材をした頃に高橋さんという方がこのベラスコ氏に会い 一番重要な原爆の件を根堀は掘り聞いています。ナチスのUFO製造の件も話しに出ています。
ベラスコ証言 ↓↓↓
『スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体』より抜粋 (途中短縮)


これから記すのは、1982年のとある日の午後、スペインはマドリード旧市街にあるマヨール広場のカフェテラスでべラスコと交わした、ナチス原爆に関する対話のすべてである。

Q「広島に落とされた原爆は、本当にナチス製なのか。アメリカ軍がナチス製の原爆を転用した、ということか」

A「そういうことだ。実際のところ、アメリカの原爆は未完成だったのだ。それで、ドイツ軍の原爆を使って日本に投下したのだ」

Q「ドイツの原爆をアメリカに渡したのか」

A「そのとおりだ」

Q「ドイツ原爆の情報を、いつ、どこで、どうやって知ったのか」

A「1936年、リスボンに滞在中のウィンザー公夫妻をドイツに誘拐する作戦があった。その作戦会議の合間に、ドイツ国防軍情報部長官カナリス(ウィルヘルム)とSS情報将校のシュレンベルグから聞いた。彼らは原爆とはいわなかったが、なんでもドイツは想像を絶する新型兵器を手にしたという。私はその情報を、ドイツ軍情報部アプヴェールの諜報部員やイギリス諜報部員らも知っているかと尋ねたが、シュレンベルグもカナリスも答えなかった。

そういえば、マーヘンという物理学者がいた。彼はヒトラーの友人で、新型兵器とその製造に精通していた男だった。私は新型兵器が製造されているらしいことを、マーヘンの言動から感じていた。カナリス長官とシュレンベルグが、私に明かした新型兵器の一件を私は信じた。そのときは製造場所までは聞かなかった。

当時、チャーチルは全欧破壊計画とノルウェーの重水炉施設の粉砕命令を下していた。その情報をキャッチした私は、それを直ちにベルリンに報告したが、なんの反応もなかった。ドイツ国防軍情報部のアプヴェールにもその情報を渡したが、そちらからもなんの返事もなかった。

1940年、日本はすでに対米戦に突入していた。日本はナチスが新型兵器を所有したことについては知らなかっただろう。私が日本のためのスパイ役を引き受けたころのことだったから、新型兵器の情報は日本に伝えた。当時はすでに、英米共同で原爆開発に着手していた。実験はイギリスで繰り返されていたが、使える原爆にはならなかったのだ」

Q「ドイツがその新兵器を製造したのはいつごろからか」

A「1940年代の初めごろからだ。その新兵器はまだ不完全だったが、驚異的な破壊力の爆弾らしいと聞いた。私の周辺の諜報員らは、その新兵器が爆弾なのかどうかすら知らなかった。爆弾の実験はチェコスロバキアで実施したと聞いた」

Q「チェコでの実験詳細は?」

A「知らない。その事件を知っている人間は、世界中でほんの数名しかいないだろう。数名というのは、実験に直接携わった人間のことだが」

Q「では、新型爆弾が原爆だったと知ったのはいつごろなのか」

A「そいつがとてつもない威力のある新兵器で、それを使えば戦争を終わらせるのも可能だということだった。1943年、私はアメリカに潜入したが、実はそのときアメリカの原爆開発の様子を知り、初めてあのドイツ製新兵器が原子爆弾だったと確信できた。私は普段は、マドリードとドイツの間を往復していた。私が渡米するときは、部下に暗号文を手交するか、直接会話を必要とするときに限られていた。これは話しておいたほうがいいと思うのだが、1941年から43年の間に、私がアメリカに入国した回数は3回、正式入国が2回で、残りの1回はメキシコのティファナからテキサスに密入国した」

Q「1943年までにナチス原爆が完成したことを、イギリスは知っていたか」

A「ノー。イギリスはドイツが原爆を開発中だとは知っていた。ノルウェーの重水炉施設で、原爆製造のための重水を貯蔵していることも知っていた。だからチャーチルは、特殊部隊をノルウェーに潜入させて、重水貯蔵所を破壊しようとしたのだ。だが、原爆が完成したことまでは知らなかっただろう」

Q「ドイツ原爆の完成と実験成功を、いつごろ知ったのか」

A「覚えていない。時期は忘れたが、その数が2個だということは知っていた。2個のほかにも原爆があったにせよ、それらはソ連が持ち帰ってしまったのだろう。ドイツ軍は2個をリエハ(ベルギー)に運んだ。それをロンメル将軍に手渡した事実は後で知った」

Q「2個の爆弾が原子爆弾だと完全に知ったのはいつか」

A「1945年だ。1944年ごろには、もはやドイツ軍は崩壊同然だった。ヒトラー政権はすでに力を失っていた。ヒトラーの周辺では、1944年に戦争終了させる計画が謀られていた。その年に私がベルリンに行ったとき、どうして2個の原爆をイギリスに投下しなかったのか、私はドイツ軍上層部に噛みついたのを覚えている」

Q「もう一度聞く。2個の新型爆弾の完成情報はあなたの耳にどう届いたのか」

A「いつ完成したのかは正確には知らない。しかし完成爆弾をベルギーに運んだこと、数回の実験で多数の死者が出たこと、その2個の新型爆弾が敵軍のアイゼンハワー将軍に渡されたことは聞いた」

Q「新型爆弾つまり原爆の製造場所はどこか?」

A「ペーネミュンデだ」

Q「工場の規模は?」

A「大規模だった。そこでは、V1・V2ロケットなどが製造され、ロンドン攻撃などに使われた。チェコ以外の諸工場で製造された新兵器類の肝心な部分は、そのペーネミュンデ工場で組み立て、完成されていた。ドイツ軍は“UFO”もここで製造していた。当時、すでに時速3000キロの推力をもつ別の飛行体もそこで製造されていた」

Q「ペーネミュンデの工場に入ったことは」

A「ない。場所は知っていたが」

Q「なぜ2個だったのか」

A「2個のほかにも新型爆弾は製造されていた。爆弾の改良と完成を急ぐ計画があった。完成ずみの原爆2個の存在は、その計画の全貌を知ったとき、納得できた」

Q「2個の原爆の完成は軍事機密だったのか」

A「当然だ。製造責任者らは新兵器の完成を、ヒトラーに口頭で伝えていた。書面で報告すれば秘密は漏れる」

Q「イギリス情報部はドイツの新型爆弾の完成情報を入手していたのか」

A「それは先ほど答えた。ありえない。われわれはイギリス側に新型爆弾へのアプローチなど絶対にさせなかった。彼らには知り得ないことだ。とはいえ、秘密工作活動の内容を一般人に説明したところで、誰も信じまいが」

Q「ペーネミュンデで製造に携わった人物たちの名前は」

A「ハベルムルの名前しか覚えていない。たとえ知ったところで、それが本名だとはいえまい。製造関係者らは皆、それぞれ偽名を使っていたからだ。たとえば、そのうちのひとりはイタリア人だとわかっていたが、それ以上の手がかりはなかった。工場周辺の町には、OSSやKGBが潜り込んでいた。だが、技術者らは情報を漏らさなかったのだ」

Q「ドイツ原爆がたどった経緯は?」

A「完成後はベルリンからの命令を待った。そして2個の爆弾をベルギーに移した。ベルギーの戦場のどこかでアメリカ軍に引き渡され、本国へ運ばれていった」

Q「ベルギーのどの地域のどんな場所に保管されていたのか?」

A「保管場所は知らない。いずれにせよ、ベルギーは小さな国だ」

Q「だれがどんなルートでベルギーに移送したのか?」

A「ドイツ空軍機を使った」

Q「だれの命令でベルギーに移したのか?」

A「ゲーリング元帥だ」
Q「どんな目的で移したのか?」

A「イギリス投下には、ドイツからよりもベルギーのほうが近い。つまり、射程距離が短い場所を選んだのだろう」
Q「ベルギーへの移転配置をヒトラーは知っていたか」

A「もちろんだ。ベルギーに移したのは1944年4月だと思う」

Q「ベルギーへの爆弾移動はロンメルが担当したのか」

A「いや違う。ペーネミュンデで完成した爆弾は、ゲーリングの指示でベルギーに運ばれた。ベルギーで原爆を受け取って保管したのがロンメルだ」

Q「実験現場をチェコスロバキアに定めた理由は?」

A「それは知らない。ただ、チェコにはペーネミュンデと同様の工場があった。そこで部品なりを補う必要があって、それでチェコが選ばれたのかもしれない」
Q「なぜ、ロンメルは米軍に渡したのか。彼の裏切りはいつごろから考えられていたのか」

A「ロンメルの動機やその実行タイミングについては、何も知らなかった。もし事前にその企てが耳に入っていれば、ロンメルに実行を断念させることができただろう」

Q「ロンメルが敵に原爆を渡した謀反をいつ、どうやって知ったのか」

A「実行されてしばらく後のことだ。ドイツのガルミス・パルテン・キルヘンで仕事中に、仲間のオベルべイルがその一件を伝えてきた。ロンメルが爆弾を渡した数日後に、連合軍の総攻撃が始まったのだ」

Q「アメリカ軍は原爆をどんな方法で本国に移送したのか」

A「当時、欧州戦線でのアメリカ軍の動きを知るのは不可能に近かった。われわれの暗号電波はキャッチされ、身動きもできず、仕事にならなかった。おそらく、ベルギーで受け取った原爆を、アメリカ軍は船舶ではなく空輸で本国に送ったのだろう」

Q「ドイツ製爆弾2個が、間違いなくアメリカ軍に渡されたと断言できるか」

A「断言する。しかし、アメリカ側はこの事実を無視するか、または否定するだろう。なぜなら、この2個の原爆がアメリカ国内に運び込まれるまで、アメリカ製原爆は未完成だったからだ。ナチス原爆が実在したというビッグニュースを知ったら、きっと日本人は驚くことだろう。この事実を世界が知れば、トルーマン大統領が捏造した原爆神話は根底から崩壊するだろう」

Q「ロンメルの処刑はヒトラーの命令か」

A「ヒトラーが自ら命令を下したかどうかは知らない。SSのシュレンベルグの命令だろう。ヒトラーはロンメルが処刑された後に、ロンメルの裏切りの事実を知らされたかもしれない」

Q「ドイツは結局、原爆を使えなかったが?」

A「当時のドイツ空軍はイギリス空軍に制空権を奪われていた」

Q「原爆とロンメルとの関係は?」

A「ロンメルは当時、ベルギー方面担当の司令官だった。彼は保管中の原爆を米軍に渡した。その秘密を知るドイツ軍人はいなかった。裏切ったロンメルは処刑された」

Q「ロンメルはチャーチル首相にではなくて、なぜアイゼンハワー将軍に渡したのか」

A「わからない。ただ、チャーチルは反イギリス的精神の持ち主だったと思う。チャーチルはノルウェーの重水炉の破壊命令を出した際、同時に欧州全都市の破壊もつけ加えている。チャーチルは欧州人の無差別殺戮を命令した男だ。そんな男にではなくて、アメリカに渡すほうがまだましだ。ロンメルはそう考えたのだと私は思いたい」

Q「アメリカに渡った爆弾はその後どこへ?」

A「ロスアラモス。アメリカ西海岸にある原爆研究所だ」

Q「これまでの原爆情報は日本の諜報機関TOのエージェントが確認したのか?」

A「そうだ。この点は白か黒かの単純な答えですむことだ。連絡メモは使わなかった」

Q「では、原爆がロスアラモスに届いた事実をどうやって確認したのか?」

A「まずは暗号無線だ。入手した情報を、通常はロスアラモスの近郊からメキシコのティファナに向けて、即座に発信した。その電波を大西洋上に待機させた船上で中継し、さらにスペインに転送する。これが私の組織の通信回路だった」

Q「原爆情報を伝えた電波は、スペインでキャッチして確認したのか?」

A「いや、私は1944年6月以降、ベルリンにいた。ロスアラモス発信の一報を受信した、ティファナの部下から連絡があったのだ。それをマドリードからベルリンの私に無線連絡してきた。急遽スペインに帰国して、あらためてティファナに無線で情報内容を確認した」

Q「無線はどう伝えてきたか」

A「詳細は忘れた。アメリカに爆弾が運ばれてきたことを知らせてきたのだ。私は即座にその内容をベルリンと日本側に報告した」

Q「アメリカに運ばれてきた爆弾が、ドイツ製原爆だとエージェントは事前に知ったうえで、それで打電してきたのか」

A「そうだ。フライデーと呼ぶ有能な修道士が、その情報を入手して送電してきたのだ」

Q「その修道士は西海岸に配置したエージェントか」

A「秘密情報員が修道士に化けていたのではない。本物の修道士をエージェントに使っていたのだ」

Q「どうやってその修道士は、その爆弾がドイツ製で、ドイツから送られてきたものと判断できたのか」

A「教会の懺悔室だ。われわれはすでにドイツ原爆の完成を知っていた。しかるに、その一件はわれわれの仕事の最重要事項として扱っていたからだ。牧師は懺悔室で科学者や軍人から情報を取った」

Q「では、原爆がベルギーから大西洋を渡った時点の情報もキャッチしていたのか」

A「いや、アメリカに爆弾が届いた時点の情報だ」

Q「原爆は最初にアメリカのいったいどこに届いたのか」

A「ニューヨークだ」

Q「アメリカ内にドイツ原爆が到着した情報を、日本側に伝えたときの日本の反応は」

A「私はまずベルリンに知らせた。当時は戦況が深刻な状態だった。それでベルリン(の日本大使館)はひと呼吸おいてから、東京に知らせたのだろう」

Q「ロスアラモスに2個のドイツ製原子爆弾が届いたとする情報は、確定情報として日本側に発信したのか?」

A「いや、仮定、つまり推測としてだ」

Q「では、ロスアラモスの部下から大西洋を越えて、ベルリンのあなたのもとに無線で届いたその情報も、仮定推測の情報だったのか?」

A「現物を確認していないから、そのとおりだ。むろん、東京にはわれわれのほか、たとえば、イタリアやオーストラリアやその他の国々からも、情報が届いていたことだろう。しかし、その時点で、日本は何をする術もない状態だったのだ。反応も何もなかった」

Q「ドイツは完璧な原爆実験をしたのだろうか」

A「さっきの話を思いだせ。だれがベルギーから原爆を運んだにせよ、当事者は、自分たちが運んでいる荷物の中身が何なのかも知らずにいたのだ。結局、広島・長崎に原爆が投下されて、初めてその荷物が原爆だったと知ったのである。製造に携わった者たちも、それは同じだ。新兵器(原爆)の精度や実験成果は、別の人間のみが知ることだからだ」

Q「ナチス原爆の完成を知る存命中の学者、軍人ほかの人物をあなたは知っているか」

A「ジャーナリストはいないだろう。開発製造に関与した学者(従事科学者)は大勢生存しているはずだ。中にはアメリカやイタリアでも生きている。しかし彼らは、自分たちがどんな爆弾を完成させたのか、当時はあまり知らなかっただろう。結果的に広島、長崎の原爆投下で初めて知ったのだと思う。」
Q「2個の原爆以外のドイツ原爆がソ連に渡ったというのは本当か」

A「完成した爆弾をソ連が持っていったのではない。製造のノウハウ(人的資源)を持ち去ったのだ。終戦間際になって、ペネミュンデの工場からは完成した原爆ではなく製造者らを、自国の原爆開発に活用するために連れ去ったのだ」

Q「ソ連が持ち去った時期はいつか」

A「戦史年譜を見よ。盗んだのではなくて、ソ連軍がドイツを占領したからだ」

Q「ベルギーでナチス原爆がアメリカ側に引き渡されるときは、だれかが手伝ったのか」

A「知らない。なぜなら、最高機関は自前の組織でやるものだからだ」

Q「ベルギーでアイゼンハワーは原爆と知って受け取ったのか?」

A「アイゼンハワーであれパットンであれ、彼らの受け取ったものが原爆だと知っていたわけではあるまい。新型の驚異的な兵器だろう程度の認識はあっただろうが」

Q「ナチス原爆はなぜ、西海岸のロスアラモスに届けられたのか?」

A「アメリカの原爆開発研究所がそこにあったからだろう」

Q「アメリカ政府や情報機関の関係者以外、民間人で原爆移転を知る人は」

A「知る人間はいるだろう。だが、私はその人物がだれだかは知らない。もちろん、ルーズベルトの周辺には多少存在しただろうが、そういた人物たちを私は知らない」

Q「チェコ、ベルギーのその場所を地図で指してほしいのだが」

A「自分に対してでさえ、疑いをもつのが私の職業だ。私にその職場を案内しろというのか。考えておこう」

Q「ナチス原爆の開発と移動の決定的情報を、あなたと交換した相手はだれか」

A「ドイツ国防軍情報部長官カナリスや科学研究者マイヤーらドイツ人だ。1943年4月か5月、マドリードのアプヴェールの隠れ家で、SS情報部長シュレンベルグも同席した場で、新型爆弾の話を彼らは私に話した。だが戦後の今となっては、どうやら彼らはその話をわざと私に囁いたような気もする。というのは、彼らはボム、つまり新型爆弾とはいったがアトミック(原爆)とはいわなかった。私はヌークリア(核)とアトミック・ボム(原爆)についての知識を、クラウスから後で教わった。カナリスとシュレンベルグらが私に漏らした新型爆弾とは、やはり原爆のことだったのだ。重大機密だというよりも、私がこの新型爆弾の存在を日本に伝えるのを見込んで、あえて私に原子爆弾といわずに新型爆弾だと語ったのだろう。通信傍受はお手のものの彼らだから。アメリカへの移動確認は、私の組織によるものだ。原爆がアメリカに移送されたときはもう、その新型爆弾が通常の爆弾であれ原爆であれ、何もかもがその時点ですでに終わっていたのだ」

Q「マドリードに置いたアプヴェールの隠れ家は、今でもあるのか?」

A「残っている」

Q「カナリスは、よくスペインに来ていたのか?」

A「そうだ。カナリスとはよく会った。カナリスはフランコ総統と会うために、戦闘機を自分で操縦して、よく来ていた」

Q「チェコで実験開発された新型兵器(1943年4月の実験)の成り行きは、絶えず監視していたのか?」

A「必要なときにする会話ですむことだ」

Q「チェコでの実験データを、戦後、アメリカは押収しているのか」

A「いや、それはないだろう」

Q「資料・記録・メモ何でもいい。アメリカ軍があの日(8月6日)に、広島に原爆投下するのは不可能だった、と証明できる手がかりはあるか」

A「いったい、何回問えば気がすむのだ。すべてノーなのだ。お前は私の呟きまで疑うのか。私には、私の発言を保証する証拠など不要なのだ」

Q「私は自身の常識を疑わざるを得なくなるが?」

A「それはお前の勝手だ。私は世界連邦政府主義者だ。どこの民族も愛するし、疑いもする。文句はあるまい。」

ここで録音テープは切れた。

「ナチス原爆の追加情報は文書でほしい。」

筆者の注文にべラスコは頷いた。

「もう喋ることはない」

そんな素気ない手紙が筆者の手元に届いたのは、その日から2年もあとのことだった。

3年前に鬼籍に入った親父べラスコの、生前の口癖を思い出した。曰く、


高橋五郎氏講演会
「天皇の金塊と広島原爆」高橋五郎氏 ダイジェスト版 2009年5月
http://www.youtube.com/watch?v=q30FxQv2hXA
”よーめんの講演会”はベラスコ氏と接触したこの方、高橋五郎さんを呼ぼりましょうか?! ナチスネタ ピッタリでしょう!ねえ有門さん。。

高橋五郎さん癌を患っていることまで分かりました。今はご健康なのでしょうか。ベラスコ氏は亡くなりました。

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