第11議定書・第12議定書

第11議定書

  新憲法の要項。われわれの革命の実際の内容。ゴイム・・羊の群。秘密メーソンとその〝見世物〟ロッジ。


  国家評議会[国政会議]は、いわば、支配者の権威につけた光背であり、立法府の〝見世物〟の役割として、支配者が出す法令案を編集する委員会と言ってもよいであろう。

  時に、われわれが用意している新憲法の要項は次の如きものである。われわれは、法、権利、正義を確立する。(一)立法府に示唆するかの如く、(二)一般法令と見せかけた大統領令、上院の命令、ならびに内閣の命令であるかの如く装おった国家評議会の決議により、ならびに(三)適切な時到らば・・革命という形で。

  われわれの行動計画の大綱は確立したから、国家機関をすでに述べた方針に従わせ、革命の完遂を促すべきあれこれの組合せの細目に入ろう。これらの組合せとは、新憲法発布の翌日からは、新聞報道の自由、結社の権利、信教の自由、その他あまたの事柄は、人間の記憶からは永久に抹消されなければならないか、急激な変更が加えられなければならないということを意味する。われわれが即刻全命令を公布できるのは、まさにその瞬間のみである。それ以後では、顕著な改革案はことごとく危険である。その理由は次の通り。もしもその改革が峻厳さを増したものであり、幾分でも厳格かつ極限まで行ったのもならば、この先どこまで厳しい改革がなされるのかという恐怖で絶望感に囚われてしまうかも知れない。その逆に、最初よりも緩和した改革案を出すと、われわれが悪いことをしたのに気付いたかのように取られるし、そうなると、われわれの権威不可謬性の威信が失墜するか、われわれが恐れを抱いて譲歩措置をとらざるをえなかったと言われるだろう。強制的という印象はぬぐえないから、そのためにわれわれが感謝されることはない……以上二つとも新憲法の威信を傷つける。われわれが人民に叩き込まなければならないのは次のことである。憲法発布のその瞬間、世界の人民は革命が成し遂げた厳然たる事実に呆然とし、まだ恐怖心と半信半疑の気持に捕われている時から、われわれがすこぶる強力、難攻不落、かつ、十二分過ぎるくらい力に溢れていて、いかなる場合であっても、かれらに一顧も与えず、かれらの意見や意志には一瞥も加えず、いかなるささやかな反抗の表明も示威も、時と所を問わず、一つ残らず粉砕する用意があり可能であり、われわれは取るべきものはすべて取り、いかなる事情にせよ、われわれはかれらと権力を分け合うことはありえない……そうすれば、かれらは恐怖に身震いして何事にも目を閉じ、事の成行きを最後まで見守るほかはないであろう。

  ゴイムは羊の群であり、われわれは狼である。狼が羊の群に入ったらどういうことが起こるか、御存知であろう。

  われわれの羊が目を閉じるのは、別の理由もある。われわれが平和の敵を打ち破り、あらゆる反対党派を黙らせたならば直ちにあらゆる自由を返してやると約束するからである……

  かれらの手に自由が戻るまでどのくらいの時間を待ち続けなければならないか、お話しする必要はあるまいと思う。

  では、何が故にわれわれはこのような政策そのものを立案し、事の真相を看破する時を与えずゴイの心に吹きつけるのか? 実際のところ、回り道をしなかったとしたら、四散したわれらの種族が直接目的を達成する方法には何があったのか? 基本的には、われわれが作った秘密のメーソン、かの家畜ゴイが存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったメーソンを作ったことが役立った。ゴイ御一同様の目を晦ませるべく、われわれがメーソン・ロッジ[結社の集会所・支部のことだが〝小屋〟の意味もある]の〝見世物〟一座にかれらを惹きつけておいたのである。

  神は与え給うた。われら神の選民に、離散という贈り物をして下さった。それは万人の目からはわれらの弱さと映るが、われらの強さは離散より生れ来たったのである。それが今や全世界支配という戸口に到達している。

  今やわれわれが据えた基礎の上に築くべきことは、余すこと僅かとなっている。



第12議定書

  ;〝自由〟についてのメーソンの定義。新聞の将来とメーソン王国。新聞の統制。通信の代理人。メーソンが理解している進歩とは? 新聞についての追加事項。今日の新聞におけるメーソンの連帯。地方〝公衆〟の声を挙げさせること。新体制の不可謬性。


  〝自由〟という言葉には、いろいろの解釈があるが、われわれは次のように定義する・・自由とは法律で許されたことをする権利である。この定義は通常はわれわれだけに役立つ定義である。なぜならば、法律というものが前に述べた計画に従って、われわれが思いのままに作ったり廃止したりできるものであるから、およそ自由と名の付くものはすべてわれわれの手中にある。

  新聞については次のように扱う。今日の新聞の役割とは何か? それはわれわれの目的には有利な激情を爆発させ燃え上らせることに役立つ。さもなければ、諸党派の利己的な目的に役立つ。新聞は多くは浅薄、不当、虚偽であり、大多数の人々は新聞が本来何の役に立つのか考えようともしない。が、われわれは新聞に鞍を置き馬勒を付け、しっかりと轡をはませる。他の印刷物についても同様である。われわれが新聞の攻撃から免れても、小冊子や書籍の攻撃の的にされたままだったらどうなるか?

  出版物の刊行は、今日ではそれを検閲するとなると大変金のかかることであるが、われわれはわれわれの国家にとって得な財源に変えてしまう。新聞等の発行団体や印刷所に許可を出す前に、特別印紙税と[損害に備えての]保証金を納めさせるのである。これをやっておくと、新聞等のいかなる攻撃からも政府を守ることができる。われわれに対する新聞等の攻撃などがあろうものなら、われわれは仮借なく罰金を科する。保証の形をとるこのような印紙税、保証金、罰金といった方法は、政府の大いなる財源となるであろう。政党の機関紙は多額の罰金を取られても平気であろうが、以上の手を打てば、われわれに対して重ねて攻撃をした場合は断乎発行禁止処分に付する。われらが政府の不可謬性の後光に指一本でも触れようものなら、何びとも無事ですむことはありえないのである。発行を禁止するには、何ら理由も根拠もなく公衆を煽動したという申立て理由を使う。一言御注意申し上げたいのは、われわれを攻撃するものの中には、われわれが設立した機関も含まれるということである。だが、かれらは、われわれが予め改正しようと決めた部分のみを攻撃するのである。

  一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない。現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められそこから配付されるようになっている。通信社は追って完全にわれわれの傘下に入り、われわれが許可したものだけが一般に供給されるようになるだろう。

  今日すでにわれわれはゴイ社会の人心をうまく掌握しており、かれら全員は世界の出来事を、われわれが鼻にかけてやった色眼鏡で眺めているに等しいとしたら、また、われわれには、ゴイの阿呆どもが〝国家の機密〟と呼んでいることに立ち入るのに障碍のある国家なぞ一つも存在しないとしたら、全世界王という最高の統治者として認められた暁には、われわれの立場はいかがになるのだろうか……

  話を新聞の将来に戻そう。誰であれ、出版人、司書、印刷人たらんとする者は、その資格免許証を取得することを義務づける。その免許証は何か過失があれば即刻取り消しとなる。こうしておくと、思想を伝えることが、われらの政府の手中にある教育手段となるのである。この教育手段を講じておけば、国民大衆にもはや脇道や、進歩の有難みなどといったたわけた夢の小道に迷い込ませはしない。われわれの中には、ありもしないその手の有難みは、人民と政府との間に無政府状態を生じさせる妄想に直通する道であることを知らない者がいるだろうか。如何となれば、進歩、いや、進歩思想は、あらゆる種類の解放運動を激励してきたが、限度ということを弁えなかったのである……いわゆる自由主義者は、実際はともかくとしても思想に関しては例外なく無政府主義者である。自由主義者のどの一人も自由のお化けを追い求め、まっしぐらに放縦に、すなわち、反対のための反対という無政府主義に陥っている。

  定期刊行物の問題に移ろう。印刷物という印刷物に、一頁につきいくらという印紙税と保証金を課し、三十枚[六〇頁]以下の書籍はその額を二倍にする。はやりのパンフレットはその部類に入れる。一方で、雑誌の数は減らす。雑誌というのは有害印刷物の中では最低である。他方、著作人たちにあまりにも長大で値段もはるのでほとんど誰も読まないような本を書かざるをえないように仕向ける。同時に、われわれの利益に適うように世論を導くわれわれ自身の刊行物は廉価で、むさぼるように読まれる。課税で無味乾燥な作家の野心はしぼみ、処罰が恐くて文筆家はわれわれの軍門に降る。かりにわれわれに文筆で抵抗する者が現われたとしても、著作物の印刷を引き受けてくれる人間がいない。出版社が印刷してくれる前に、出版業者や印刷業者が官憲の許可を得なければならない。これによって、われわれはわれわれに対して向けられた奸計をすべて事前に知ることができるので、それが世に現われないうちに抹殺することができる。

  文学とジャーナリズムは、最も重要な教育手段のうちの双璧であり、それゆえに、わが政府は大多数の雑誌の所有主となる。このことは、独立系新聞の有害な影響を緩和し、公衆の精神に甚大な影響をもたらすだろう……仮に十の新聞に発行許可を与えたとすると、われわれは三十に及ぶ新聞社を設立する。しかしながら、公衆はそんな事情はゆめ知らず考えてみようともしない。われわれが発行する新聞はすべて、見た目には反対の傾向や意見をもち、それゆえにわれわれに対する信頼を集め、われわれにとっては全き疑うことなき反対者を呼び寄せる。このようにして、われらの敵対者は罠にはまり、牙を抜かれるのである。

  最前列に位置するのは、政府機関紙の性格をもった新聞であろう。この種の新聞は、常にわれわれの利益を擁護するが、それゆえに比較的影響は弱い。

  第二列に位置するのは、半官半民の刊行物で、なまぬるい無関心層を惹き寄せるのが役割である。

  第三列に位置するのは、見た目には全くわれわれの反対者として設立されたもので、少なくともその紙上では、まさにわれわれとは逆の立場に立つように見える論説を掲載するであろう。そこでわれわれの本当の敵対者は、この疑似反対論を真説と思い込み、自分の手の内のカードを見せてしまう。

  われわれの新聞全体では・・もちろん、憲法が存続する間での話だが・・およそ考えられるどんな傾向も・・貴族的、共和国的、革命的、さらには無政府主義擁護的なものまでも・・持っているだろう……インドのヴィシュヌ神の像のように、これらの新聞は百本の手を持っていて、その一本一本の手が世論のどれか一つに指を触れる。脈拍が早くなると、これらの手はわれわれの目的に向って世論を導く。熱に浮かされた患者は理性の判断力を失い、暗示にかかり易くなるのである。自分たちの陣營の新聞の意見を述べていると思い込んでいる阿呆どもは、誰ぞ知らん、われわれの意見やわれわれが望んでいる見解をオウム返しに唱えているだけなのである。自分の党派の意見に従っていると虚しくも信じつつ、実際にはわれわれがかれらに広げている旗に従っているだけのことなのである。

  以上の意味で、われらが新聞軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織しなければならない。中央新聞局という名称のもとに、われわれは文筆家の会合を設け、そこにわれわれの覆面の代理人を送り込み、指令と当日の標語を示す。問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、ただ単に、当初の公式表明を補足する材料を提供する目的で、われわれの機関は、われわれの公式の新聞に対して見せかけの一斉射撃を浴びせる。

  われわれに対するこの集中砲火は、ほかの目的、すなわち、言論の自由はまだちゃんと存在していると納得させ、われらが代理人に、反対者たちはわれわれの指示に対して、実のある反対意見をこれっぱかりも示さなかったからには、われわれに反対する機関はみな空騒ぎしているだけではないかと断言する材料を提供する。

  公衆の目には感知されないが絶対確実なこのような組織方法は、公衆の関心と信頼をわが政府に惹きつけておくのに最高の方法である。この方法のおかげで、われわれは公衆がどう受け取るかによって、必要に応じて時折、政治問題に対する感情を刺激したり鎮静したり、説得したり混乱させたり、今日は真実明日は虚偽、事実に即して立論したと思えばその反論を掲げたりするが、常にわれわれが足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べるのである……われわれの敵対者は、前記の方法で新聞を操作することができず、十分かつ決定的な意見を開陳する新聞という最終的な手だてを欠いている以上、われわれの勝利は確実この上もない。よほどのことでもなければ、反論の必要もないくらいである。

  われわれが新聞の第三列に放つ試射は、必要があれば半官半民の紙上を通じて精力的に駁論する。

  フランス新聞界のみではあるが、今日でもすでにメーソンの連帯行動を物語る形態があり標語ももっている。すべての新聞機関は、結束して職業上の秘密を守っている。古代の卜占官さながらに、その成員は、過去に解決ずみの問題でない限り、情報源を漏らしたりはしない。ジャーナリストならただの一人もこの秘密を暴露するような愚挙を犯しはしない。というのは、どの一人をとってみても、かねて過去に不行跡な事などをしない限りは、文筆仲間に入れて貰えないからである……秘密を漏らしたりしようものなら、直ちに過去の不行跡が暴露されるというものである。秘密が少数の間でだけ知られている限りは、ジャーナリストの権威は大多数の人々に行きわたり・・群集は熱狂的に彼に従う。

  われわれの計画は特に地方に及ぶ。いかなる瞬間にも首府に希望と欲求を浴びせられるよう地方の炎を燃え上らせることが必要不可欠である。われわれは首府に向って、これが地方独自の希望であり欲求であると焚き付ける。当然のことであるが、地方世論の情報源というのは、同一無二のもの・・われわれが指示しているものなのである。必要なことは、われわれが十二分に支配力を得るまでは、われわれの代理人団が組織した多数者、すなわち地方の意見で首府を窒息させておくべきである。必要なことは、決定的瞬間には首府は既成事実をとやかく言える立場にはないということである。それは単純な理由であって、各地方の大多数の世論が受け入れている事実だからである。

  われわれが完全な主権を手中にするまでの過渡期の新体制の時期まで進んだら、もはやどの種類の新聞にも社会腐敗を暴露する記事は載せさせない。新体制下では万人が完全に満足しているから犯罪を犯す者はいないと信じさせることが必要である……犯行の真相解明は、被害者とたまたま目撃した者だけに留めておくべきであって、それ以外には必要ない。



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