第13議定書・第14議定書
第13議定書
日々のバンの必要。政事の諸問題。産業の諸問題。娯楽。遊び場。「真理は一つ」。大問題。
日々のパンが必要なために、ゴイムは余儀なく沈黙を続け、われわれの従順な召使になっている。われわれの新聞がゴイムの中から選んだ代理人に、公文書であからさまに触れるのは都合の悪い問題を議論するようにさせる。その間、われわれは論議の渦の真中で静かに聞いていて、われわれに必要な部分を取り込み、それから公衆に既定事実として提示するのである。いっそう改善したものを説明するのだから、何びとも一度定めたことを撤回せよとは言わない……そして間髪を入れず新聞は世論を新しい問題の方に向けさせる(われわれは人民を何か新しいものを求めるようにずっと馴らして来たではないか)。頭が足りない〝運命の小売屋〟たちは自分の議論する問題が髪の毛一筋も解っていないということさえも理解できずに、新問題に飛びついてしまう。政事の諸問題は、これを考案した大先達、過去何年にもわたって先導してきた人々でなければ、誰も参入できないのである。
以上のことからお解りのように、群集の意見を先導するには、われわれの仕組の働きを良くするだけで事足りるのであり、われわれがかれらに賛同を求めるのは、あれこれの問題についてのわれわれの行動ではなく言説であることに気付かれるであろう。われわれは常に、希望に導かれ確信に基いてすべての事業にあたり、公共の福利に奉仕しているのであると公言している。
厄介になるかも知れない連中に政事の諸問題に首を突っ込ませないようにするのに、われわれは政事に代わるものを熱心に勧めている。すなわち商工業の問題である。この分野でなら、どれほど騒いでもよろしい! 政事に代わって何か没頭できるものがあれば、群集は政治活動の類いから手を放して一服することに異存はない(政治活動は、ゴイ政府と一戦交えさせるために、われわれがかれらに施した訓練であった)。商工業問題においては、われわれは政治そっくりの事をやっているかのように思うように処方してある。かれらがかかずらわっていることを解き当てさせないように、われわれは娯楽、競技、ゲーム、色事、遊び場をあてがって、更に政事から遠ざける……そのうち、われわれは新聞を使って芸術、スポーツなどありとあらゆる種類の競争を始める。こういうことに関心が向けられれば、われわれがかれらと争わなければならない問題から、かれらを完全に遠ざけるだろう。ますますかれら自身の意見を反映したり形にしたりすることが難しくなるに従って、人民はわれわれと同じ口調で語るようになる。なぜならば、われわれだけがかれらの考え方に新しい方向付けを示しているからである……もちろん、われわれとは表面的には無関係の人々を通じてであるが。
われわれの政府が承認されると、自由主義者、空想論者の役割は最終的に終る。その時まで、かれらはたっぷりとわれわれに奉仕し続けてくれる。そのために、われわれはかれらの頭をあらゆる種類の空疎な内容の空想的理論、今では進歩的と呼ばれる理論の方に引っ張り続けている。が、われわれはゴイムの空っぽ頭を進歩転換させることに成功したことはなかった。ゴイムの中には、物質的発明の問題ではない所で進歩を追い求めたところで真理からは遠ざかるばかりだということが判る人間はいないのである。なぜなら、真理は一つであり、そこには進歩が入り込む余地はないのである。進歩、それは誤った推論に基く思想のようなものであり、神の選民であり、真理の保管人であるわれわれの外には何びとも知らない真理を覆い隠すのに役立つ。
われわれの王国が実現した暁には、われわれの弁士たちは、人類をすったもんださせてきたこの大問題を解義して、われわれの慈悲深い支配の下で結着を付けさせるだろう。
その時になって、これらの人々は一人残らず、幾世紀にもわたり何びとも推測もしなかった政治計画に従って、われわれに踊らされていたのだということを、いったい誰が疑うだろうか。
第14議定書
未来の宗教。未来の農奴制の状態。未来の宗教に関する知識は得がたい。ポルノグラフィと将来の印刷物。
われわれが王国を築く時は、われらの唯一神宗教以外いかなる宗教の存在も許さない。われわれの運命は選民としてのわれわれの地位によりその唯一神と結びつき、そのわれわれの運命は神を通じて世界の運命と結び付いているのである。ゆえに、われわれ以外のあらゆる形態の宗教を一掃する。その結果、今日見られるような意味での無神論者が誕生するとしても、過渡期に限る現象であって、われわれの目的には妨げない。むしろわれわれが説くモーゼの教えに耳を傾ける世代の前兆として有用であろう。モーゼの教えは牢固として完璧入念なる教義であり、それなるがゆえに世界の全人民をわれわれに従わせてきた。そこに、モーゼの教えの隠された神秘の力があることを力説しよう。後にも述べるように、モーゼの教えの感化力は、すべてその神秘の力に立脚しているのである……次いで、あらゆる機会をとらえて、われわれの慈悲深い支配と過去のそれとを比較する論説を公表する。数世紀にもわたる震盪動揺の果てに訪れた安穏静謐が、われわれの与えた恩寵によって、さらなる安堵へと高まるのである。われわれは最もはっきりとした口調で、ゴイム政府が犯した過ちを描いてみせるであろう。われわれがかれらに対する嫌悪の情をそそるので、人民は、かの自由を振り回す権利などよりも、農奴制のような状態でよいから安穏の方を好む。自由の権利は、人間性に拷問をかけ、まさに人間存在の根源を疲弊させ、人民は自分が何をしているのか解っていない一群のこすからい山師たちの餌食となったのである……われわれがゴイム政権を覆すにあたっては、ゴイムを煽動し幾たびか無益な政変を起こさせた。人民は疲れ切ってしまい、またまた新たな騒動や苦難をかぶるよりも、少々の辛抱をしてもわれわれの言うことを聞いている方がましだと考えるだろう。
同時にわれわれは、ゴイ政府の誤ちの歴史を看過容認はしないだろう。ゴイ政府は何世紀にもわたって、人類の真実の善性を構成する要素を何一つ理解せず、錯覚した社会改善を追い求め、その改善の結果さらに悪くなり、人間生活の基盤である一般関係が決して改善されないことに全く気付いたことがなかった。
われわれの原理と方法の総体は、われわれがかれらに提示し解義したように、死に絶え腐敗した古い秩序の社会生活とはまばゆい対照をなす事実の中に横たわっている。
われわれの哲学者たちは、ゴイムの種々雑多な信仰の欠陥を洗いざらい論じるが、真実の視点からわれわれの信仰に口をはさむことは誰もやらないだろう。われわれ以外の誰もこの宗教のことは知らないし、われわれはその秘密を明かすような裏切りはやらないからである。
いわゆる先進文明国の中に、われわれは愚劣極まる、卑猥不潔な、嫌悪感を催おす文学芸術を創らせた。われわれが権力の入口に立ってしばらくの間は、われわれの演説、集会プログラムと対比させつつ、その種の文学を奨励するつもりである。こうすると、われわれの高尚な一画とはあまりにも違うことが歴然とするだろう……ゴイムの指導者になるべく訓練されたわれら賢人は、講演演説、事業研究計画、回想録、論説著作活動に携わるだろう。われわれはそれらの作品を用いて、ゴイムの人心を感化し、われわれが定めてやった知識を摂取する方向に導くのである。