序・ユダヤ教パリサイ派

シオン長老の議定書


序 『シオンの議定書』の英訳者ビクター・E・マースデンについて

  有名なプロトコールの翻訳者は、革命の犠牲者であった。彼は多年にわたってロシアに居住したことがあり、ロシア婦人と結婚した。ロシアにあった当時の彼は、長らく『モーニング・ポスト』誌のロシア通信員であった。ロシア革命が失敗するまでその仕事に従事していた彼がロシアから送った生き生きとした記事は、同誌の読者には今もって思い出となってとどまっているだろう。推察されるように、彼はソビエト政府に狙い打ちされた。クロミー船長がユダヤに殺されたその日、ビクター・マースデンは逮捕されペテル・パウル監獄に投監され、処刑執行に自分の名を呼ばれるのを日々待つ身となった。だが、彼は脱走し、はなはだしく肉体を損傷してイギリスに戻った。しかし、彼は妻と友人たちの献身的な看護で健康を回復した。仕事ができるようになると直ちに手をつけたことの一つが、プロトコールの本翻訳だった。マースデン氏はこの仕事には抜群にうってつけの人だった。ロシアとロシアの生活とロシア語に造詣が深い一方で、簡潔で要を得た英文スタイルは巨匠の域にあり、何人かがこの仕事に名乗りをあげたとしても、彼に優る適任者はいなかった。その結果、彼の訳文により優れて読み易い訳文に接し、整理されていなかった感のある主題に、マースデン氏の筆致により二十四のプロトコールを流れる脈絡を読んでとることができる。彼自身が各章の最初に掲げた要約は、プロトコールの概観を得るのにきわめて有用であろう。

  この労作はマースデン氏自身の血をあがなって実現したというのが真実である。英訳しようという使命感にかられて無理を重ねたことが明らかに彼を病気にさせ、彼はこの序文の筆者に、もはや大英博物館の中で一時間と続けて仕事をしていられないと語った。

  マースデン氏と『モーニング・ポスト』誌との関係は、英国に帰国してからはゆるやかなものになったが、彼はプリンス・オブ・ウエルズ殿下海外旅行の同誌随行特派員を快諾した。明らかに良い健康状態で殿下との旅行から帰国した彼は、上陸して数日を出ずして突然発病し、短時日病床に就いて死亡した。彼の突然の死はいまもって謎である。

  この労作が彼の栄誉を飾る記念碑とならんことを!

  この作品を通じて彼は英語を話す世界に計り知れない貢献をはたした。本書が『シオン長老のプロトコール』の英訳書のなかで第一級に位置づけられることは、疑う余地がない。


ユダヤ教パリサイ派

  ユダヤ教とは、ユダヤ人長老のモーゼス・メンデルスゾーンがこのように言っている・・「ユダヤ教は宗教ではなく、宗教化された法である」。この定義は、非ユダヤ人の間に広まっている、ユダヤ教は宗教であるという誤った観念を是正するのに有効である。

  ユダヤ人もキリスト教徒も同じように、ユダヤ人は最初の一神教者であるとしばしば声高に説いているにもかかわらず、ユダヤ人のエジプト行きよりもはるか以前に、メンフィスの僧侶の高位の秘義を受けた者は一神教徒であったことが証明されている。

  ユダヤ教は祭儀もしくは典礼書としては最も詳述されているものと考えてよいが、、ユダヤ立法者モーゼが実在の人物だとするならば、モーゼは最初エジプトの高位秘義伝授者の間で修業を積み、後に、黒人が行う魔術儀式であり祭儀の由来となっているブードゥー教の父と呼ばれることもある、エチオピアの黒人魔術師ジェトロの弟子かつ養子となったことを記憶にとどめなけれはならない。

  ユダヤ人の歴史をさらに詳しく見れば見るほど、ユダヤ人はまとまった宗教的な統一体でも民族でもないことが見えてくる。一部のユダヤ人指導者が世界の全ユダヤ人を一つの民族的統一体に結びつけようとがむしゃらな努力をしたシオニズムが絶対に誤りであることは、その範囲がパレスチナに限られていることを見ても、さような努力の無意味さを露呈しているのである。

  ユダヤ教は宗教ではなく、ユダヤ人は民族ではなく祭儀としてのユダヤ教の一宗派である。

  ユダヤ人大衆にとっての義務と典礼は、タルムードとシュルハン・アルーフ[用意のできた食卓の意]に含まれているが、高位秘義者の奥義伝授ならカバラに載っている。

  そこには神降ろし、超自然力に働きかける呪文の使い方、数秘術、占星術その他神秘的な諸術が入っている。

  カバリストは幾星霜にもわたってその秘術を使い、非ユダヤ人の上流社会にも大衆にもユダヤ人の優越性を見せつけている。君主も法王も、一人かそこいらのユダヤ人を占星術師か相談相手として雇うのが常だったし、内科医としてユダヤ人を抱え入れ生命を委ねることもしばしばであった。ユダヤ人が非ユダヤ人の国々で、経済力と平行して政治的な力もつけるようになったのは、そういう次第だった。以来、ユダヤの宮廷銀行家たちが、政府の公債や税金を意のままに操った。

  幾星霜を重ねて、パリサイ派の影響力は広がり続けたが、秘密の破壊的な集団が浸透し社会を破滅へと陥れて行く恐しい行状が気付かれたことはなかった。

  指導部としてブナイブリス最高会議を頭にいただき、すべての政府に蝟集するパリサイ派は、あらゆる国の政府を支配し、政治、経済、宗教、教育を牛耳る専政勢力となった。『ニコライ二世とユダヤ人たち』でネチェボロドフは次のように説明している。「バビロン捕囚時代に、ユダヤ人法師たちが入手したカレドニアの科学によって、聖書と捕囚(紀元前六〇六年)後にユダヤ人歴史家がわずかに残した文書にその名が見えているパリサイ派を誕生させることになった。高名な科学者のムンクは、パリサイ派は疑いなく捕囚時代に形成されたと書き残している」。「カバラやパリサイ派の伝承教説はその時代に遡る。すこぶる長期にわたってかれらの規範はわずかに口承によって伝えられていたが、後にタルムードを形成し、最終的には『セフィー・ハ・ゾハール』という書物にまとめられた」。(ネチェボロドフ著、前掲書)

  パリサイ人たちは、あたかもユダヤ人の中の一種知的貴族といった観があった。最初はかれらは「ハブラー」という一種の血族集団をなし、その成員は「ハブリム」すなわち兄弟と呼ばれていた。かれらはサドカイ人の聖職者たちを放逐することを目的とした破壊分子であった。サドカイ人聖職者たちは血と出自の良い貴族階級であることを誇りとしたのに対し、パリサイ派は知的貴族であることをもって対立した。パリサイ派が挑戦した戦闘は長きにわたり、抗争は熾烈を極めた。パリサイ派は、重要な教義の一つが「アム・ハレツ」すなわち単純な人々をはなはだしく軽蔑することにあるのは自ら語っていることであるが、自分たちの目的達成のためには大衆の支持が必要であることを見過さなかった。かれらはサドカイ人が多くの場で律法を厳しく守ろうとするのに反対し、積極的に安息日を遵守した。

  サドカイ人の勢力はティトゥス神殿の没落とともに衰退に傾いたが、それ以後、パリサイ派がユダヤ人の間で覇権を握った。

  ユダヤ教の有名な権威フラヴィアン・ブレニエ氏の言葉を引いて、ネチェボロドフ提督は、パリサイ派の方針をさらに詳しく次のように述べている。「ユダヤ人の熱望が誇らしげに表明されるまでに、パリサイ派の伝承教説は深刻な難関を克服しなければならなかった。最たるものは捕囚によってユダヤ人が正統的な信仰に戻ろうとした傾向だった。長期の国外生活の間に、エルサレムの神殿が没落したことを嘆き、故国の不幸が終るようにエホバに乞うたが、単なる幻であったエホバの啓示は、ある種の挫折感を招いただけでなく、ユダヤ人がイスラエルに対するあらゆる権威を失うやも知れぬ決定的な破滅の淵にまで身を曝す事態となった。「その時、パリサイ派は事態を抜け目なく判断し、宗教運動のリーダーシップをとることによって同胞の信頼をかちとり、好んで律法の最も些細な指示でも良心的に遵守し、こみいった儀典のあれこれを設け、それらと全く平行して秘密の聖域で新しい教義を磨き上げた。それが捕囚の時期に二、三百人の識者によって結成された本格的な秘密結社であった。最も隆盛を誇ったフラビウス・ジョセフスの時代でも、その数は六千人かそこいらを数えただけだった。


「汎神論者たちのこの一派が、やがてユダヤ民族に直接的な影響力を振うこととなった。加えるに、かれらの教義ほど民族感情を害するものは現われたことがなかった。しかしながら、カルデアの汎神論に押し流されたかも知れぬパリサイ派は、人種の誇りを無傷のまま保っていた。かれらはバビロンで吸収した、人間に神性を与えたこの宗教を、もっぱら他よりも優越して神に運命を授けられたユダヤ人に利益をもたらすものと考えた。伝統的なユダヤ人が律法の中に見ていた全世界の支配という約束を、パリサイ派は民族に対するモーゼの神の領域という意味には解釈しなかった。来たるべきメシヤは原罪を購う者などではなく、世界を導く精神的な勝利者、戦いで血ぬられた現世の王であった。その王がイスラエルを世界のあるじにし、〝全人民を戦車の車輪の下に引きずり込む〟のである。パリサイ派は全世界の国々が謎めいたエホバの奴隷になることは[表立っては]要求せず、世間一般に譲歩して人々に信仰させ続けた。というのは、何世代にも続くイスラエルの忍耐力と人間的な手段とを使って、行く行くは自分たちの計画が達成することを期待していたのである。「このような信念は古代の律法とはいちじるしく異なるものであるが、かれらは何ごとも気付かれぬように、このなじめない思想を一滴一滴フィルターを通してユダヤ人に浸透させてきたのである。「パリサイ派が編み出した仕組は、やがて実を結ばないはずはなかった。「イエス・キリスト以前のユダヤ社会では、このようなことは片鱗を見付け出すこともできない」と、フラビアン・ブレネは言う。「現代社会でこれに類するものはフリーメーソンぐらいなものである」。「注意深く制限された結束固いメンバーに〝秘密〟の教義が注ぎ込まれ、パリサイ派は二つの目的を容赦なく追求した。すなわち・・

  一、政治的に重要な公職(再編成されたユダヤ民族にとってはすさまじい影響力があった)に就くことによって政治権力を掌握し、サンヘドリン(ユダヤ人の議会)を征服する。

  二、かれらの極秘の教義に沿うように人民を次第次第に教化する」。

  これらのうち第一の目的は、ダビデの末裔と自称するバビロンのパリサイ派ヒルレルが、サンヘドリンの会頭に選ばれた時に達成された。このことはパリサイ派対サドカイ派の抗争にきびしい結着を付けた。ヒルレルに対抗したのはサドカイ人で議会の主席裁判官だったサドカイ派の高位聖職者を支持していたシャンマイだった。二人がお互いをどう見ていたかは、タルムードにえんえんと記録がある。

  パリサイ派で最も有名な人物には、ヒルレルのほかには・・ヤムナイ学校の創立者ヨハン・べン・ザッカイ、バル・コフバとともにユダヤ人離散の命令を覆させた反乱、ハドリアヌス皇帝治下でローマ人に対して蜂起(紀元一三二年)を組織したアキバがいる。また、シモン・ベン・ヨハイは、魔術師またカバラの父として、また、後にはバビロニア・タルムードを編纂したユダ王子として挙げられよう。これら先達の下に、パリサイ派勢力はサンヘドリンの支配権を確立するに至った。サドカイ派の伝統に固執したユダヤ人の中には、パリサイ派の専制を拒んだ反体制者がいた。それがタルムードを拒絶したサマリア人とカライーム派ユダヤ人である。

  第二の目的とその達成方法が、『イスラエルの秘密の教義』の末裔たちが声高に非難する、いわゆる『シオン長老のプロトコール』に露呈されている。ここで言うイスラエルとは、宗教的共同体としてのユダヤを意味するのだが、ユダヤ人の多くは複雑で破壊的な計画のことはまるで知らないままに置かれている。

  パリサイ派に対するイエス・キリストの態度は、新約聖書に明確に示されている(ルカ伝十一章、ヨハネ伝八章)。

  二〇世紀にも行われているユダヤ人の宗教、表向きのユダヤ教は、旧約聖書と、それと同じく何世代にもわたる口承の記録、前に述べたよく知られている総称タルムードという古代の解説書を根本教典にしている。この書物全巻は、一三〇六年、フランス国王の公正王フィリップ五世の命令で焚書にあったが、全滅から逃れた書冊があった。

  ユダヤの神は、全人類の父でも理想の愛や正義や哀れみでもなく、キリスト教徒の神でも[ゾロアスター教の]アフラマスダでも[ヒンドゥー教の]ブラフマンに類するものでもないことは明らかである。全く逆に、この神は彼の民に対してのみ正義であり慈悲深いが、その他すべての民の人間の権利を否定し、イスラエルこそが富者にふさわしく支配に値し、その他の民は奴隷になれと命じる仇敵であり、曾孫や玄孫の代にいたるまで復讐する神である。

  そのことを物語る文書を以下に引用しよう・・「主はあなたの意のままにあしらわせ、あなたがかれらを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(申命記、七章二)。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記、七章六)

  タルムードはこの点について次のように述べている。「なんじらは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、一四六の六)。「ゴイ(非ユダヤ人)の家には、一群の家畜が住んでいる」(トセフタ、エルビン、八章)。

  タルムード(過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの)から、「神よ、あなたを信ずることなく、その御名を称えざる民どもの上に、あなたの怒りを注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ、あなたの怒りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし、粉々に打ち砕き給え。おお神よ、かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するものすべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶、四散、殱滅し給え。誅殺し給え!

  今ただちに誅殺し給え!」(プラナイティス、クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム、『シナゴーガ・ジュダイカ』二一二頁、『ミンハギン』二三頁、『クラチ・シャイム』四八〇頁)。「ゴイが住んでいる家を見て、人はこう言った。〝神は傲慢の家を亡ぼすだろう〟。そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。〝復讐の神が顕現されたのだ〟」(バビロニアン・タルムード、ベラチョット、五八の六)。「トーラーを持たざる者と予言する者とを、すべて殺さなければならない。かれらを殺す力ある者は、剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、四二五の五〇)。

  ユダヤの似非賢人たちは、いにしえの律法に対するキリストの解釈では、異国の民に対する憎悪に代わって神の前ではすべての人間が平等であり兄弟の想いを抱くことが説かれ、その教えによればユダヤが世界の主人になるという特権的な地位が否定されることに気が付いた。

  同時に、キリストが刷新した旧約聖書の素朴だが確固とした道徳観念は、生存闘争の場では自分の都合次第でころころ変える、破廉恥なユダヤの二重道徳を放逐した。キリスト教信仰に対するユダヤの憎悪は、次に引用するタルムードの文言に顕著に語られている・・「ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する」(ババ・バトラ、一四のb)。「ゴイの財産は主なき物品のごとし」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、一一六の五)。「ユダヤ人がゴイの土地に鍬を入れれば、その土地全部の所有者となったのである」(ババ・バトラ、五五のa)。

  キリスト教徒もひとしく認めていた旧約の権威を高めんがために、それと平行してタルムードとラビの権威を増大させるために、タルムードの解釈と筆者たちは、次のように述べた・・「律法(聖書)は多少とも重要ではあるが、長老方が聖典に記された言葉は常に重要である」「ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも、さらに悪い」(ミズナ、サンヘドリン、十の三)。「ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである」(エルビン、二一のb)。「タルムードの決定は、生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは、現世のラビに意見を聞き給う」(ラビ・メナヘン、第五書の注解)。「エホバは天国にあって刻苦勉励してタルムードを学び給う。それほどこの書物に敬意を払われているのである」(メチラ訳)。

  宗教的ドグマの威厳を増すために、次の教義が授けられる・・「ユダヤの民は神に選ばれたる唯一の民にして、爾余の民は軽蔑に値する不快な民であること」「他の民の資産はなべてユダヤの民に属し、必然的にいかなる良心の咎めもなく占有する権利があること」「正しきユダヤの民は他の民の人々に与えられた道徳原理にも拘束されぬこと、一方では正しきユダヤの民は、あたかも自分自身やユダヤ人自身の利益になるかのように、道徳に反対すること」「ユダヤ人はゴイ(ゴイとは不潔を意味し、非ユダヤ人に対する蔑称である)から奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく、持てば神の名において不名誉となるだろう」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、三四八)。「ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが、ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない」(ミズナ、サンヘドリン、五七)。「ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、[ユダヤ人が]ゴイに返すことは禁じられている」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、二六六の一)。「ゴイに向って誓いを立てた者は、盗賊であれ税吏であれ、責任を取らなくてよい」(トセフタ・スゼブノット、一一)。「結婚、誓約、約束を取り消すには、ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが、ラビが不在の場合は、他のユダヤ人を三人呼び集め、かれらに残念ながら取り消すと言えばよい。そうすると三人は〝なんじは許された〟と言う」(シュルハン・アルーフ、二、一の二四七)。

  ありとあらゆる種類の誓いごとをあらかじめ御破算にし無罪放免とするように願う、最後の審判のコル・ニドルの祈りというのがある。「神にかけし誓い、人にかけし誓い、物にかけし誓い、和解のその日よりかけし誓いのくさぐさを、われら果たすつもりでおりましたが、もはやその時は尽きたので、ここにお願い申し上げます。くさぐさの誓いをいっさい取り消し、取るに足らざるものとなし給わんことを。われらの誓約はいっさい誓約に非ず、われらの宣誓はいっさい宣誓に非らざらんことを」(シュルハン・アルーフ、編Ⅰの一三六)。「もしも律法の法廷で、ユダヤ人に対する証言をゴイに求められたユダヤ人は、明白に証言可能だとしても、それを行うことは禁じらる。だが、類似の事例で、ゴイに対する証言を求められたる場合は、進んで行ってよい」(シュルハン・アルーフ・・Ch。Ha。、三三八)「何者かが三度ユダヤ人を裏切るか、もしくは[ユダヤ人の]金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は、賢人会議はその男を放逐しなければならない」「裏切り者を放逐せんがために、何人も共同体に寄付をしなければならない」(前掲書)。「その場所を問わずユダヤ人を非難した者は殺してよろしい……その人物が非難しないうちに殺してよろしい……しかしその人物に〝非難するな〟と警告する必要はある。にもかかわらずその人物が〝非難してやる〟と言った場合は殺さなければならず、真先に殺した者には大きな手柄が与えられるだろう」(前掲書、三八八の一〇)。「〝盗賊〟という言葉の解釈。ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない」(トセフタ、アボダ・ザラ、Ⅷの五)。「ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず」(前掲書、Ⅷの五)。

  この戦慄すべき道徳律を発布し、あらゆる種類の犯罪を無罪としたタルムードの筆者たちは、かれらの民に対する異邦人との闘争を容易にするために、その内容を極秘にする必要を感じ、次のような掟を設けた。「ゴイにわれらの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば、かれらは公然とわれらを殺すだろう」(リブル・デヴィッドの書、三七)。「律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である」(ジャクトゥ・ハダズ、一七一の二)。こういう意図をもった掟や戒律が、信仰ドグマの権威を高めた。このような禁制に直面しては、タルムードの秘密が他の国々、とりわけ西欧にほとんど知られることがなかったのは驚くには当たらないし、今日に至るまで、最も進歩的で市民的なユダヤ人でさえも、タルムードの原理を公開することは最も無法で許しがたく、ユダヤ人の宗教に対する攻撃だと考えている。

  ユダヤ民族と他の民族とを分かち、二つを混ぜ合わせないようにし、他国民の特徴を失わせるために、日々の生活を律する儀式と規則といったおびただしい規範、偏見と迷信、野蛮時代の遺物、そして難解さが、タルムードに結集され、教典として崇められた。東方のユダヤ人が今日まで遵守しているその教典は、文化や衛生についての最も素朴な観念までを軽蔑する。たとえば、次のように申し渡す。「ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら、ただただ嘘の説明をするべきであり、ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。この律法を破る者は生かしておいてはならない」(リブル・デイヴィド、三七)。「律法の秘密をあばくことは禁じられている」「ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない」(ザーロット・ウザボット、ジュル・ダの書、一七)。「タルムードを学ぶゴイ、それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない」(サンヘドリン、五九、ア・アボダ・ゾラ、八の六。ザギガ、一三)。「ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である」(トセフタ・ミクワト、vの一)。「九歳と一日以上のゴイの少年と、三歳と一日以上の少女は、不潔とみなされる」(パーフォコヴィッツ、タルムード、t・v、一一頁)。

  これらの原理は、諸国の政府が司法や軍事の地位にユダヤ人を就けない理由の説明になる。そしてまた、かの〝反ユダヤ主義〟として知られる神秘な現象の説明にも・・。


いかにしてプロトコールはロシアに来たか

  〝プロトコール〟<原注1>という言葉は公的文書の最初の頁に糊付けして、開巻の決まり文句だとか参考に供するために内容の要約だとかを書いた見返しのことを意味するのが普通だった。条約の草稿は普通、署名人が署名する前に正式文書に誤りがないかどうかを検するために、こういう糊付けをしたのである。草稿そのものは会議で論じられたことをもとにしたので、この言葉は議事録のことも意味するようになったのである。『シオン長老のプロトコール』の例では、ユダヤの指導者たちによる「行動計画草案」という意味になる。ディアスポラ[バビロン捕囚後のユダヤ人離散]以来、ユダヤの歴史では異なる時期にこのような草稿が数多く存在したが、一般に流布されたものは僅かしかない。全体を通じて、その原理と道義性は、この種族と同じくらい古くから変りない。挿入図に示したのは、十五世紀にあった一例である。

  一四九二年、スペインのラビの長キモールがグランド・サンヘドリンに手紙を出した。スペインの法律によって追放されそうになった彼が、コンスタンチノープルにあったサンヘドリンに助言を求めたのである。次がその返書である。<原注2>「愛するモーゼの兄弟よ、貴下が心労と災厄を忍ばれる書簡を受理した。貴下同様われらも大いなる心痛に胸を刺さるる思いである。

  大地方総督とラビの助言は次の通りである。

  一、スペイン王<原注3>にキリスト教徒にならんことを強要さるる件に関し て。他に途なき以上、そうされよ。

  二、貴下の財産の没収命令が出さるる件に関して。貴下の子息らを商人となし、キリスト教徒より少しづつ没収せしめよ。

  三、貴下の生命が脅迫さるる件に関して。貴下の子息らを医師または薬剤師となし、キリスト教徒どもの生命を奪え。

  四、貴下の礼拝堂破壊の件に関して。貴下の子息らを、キリスト教教会を破壊すべく、大聖堂参事会員ならびに聖職者にせよ。

  五、その他、貴下が訴願されたる心労の種諸々に関して。貴下の子息を弁護士ならびに法律家となすよう手配し、常に国事に親ませ、貴下らの支配世界実現によりキリスト教徒に軛をつなぎ存分に報復せよ。

  六、貴下に送るこれらの指図を逸脱してはならない。なんとなれば、屈辱を蒙りし貴下の経験を通じ、貴下は現実の支配力に到達されるであろう。

(署名) コンスタンチノープルのユダヤ王子


  ニールスが世に出したプロトコールは、ユダヤ指導者の計画の最新版に過ぎない。いかにしてそのプロトールが広く知られるに至ったかの物語は、極めて興味深い。

  一八八四年のこと、ロシアの一将軍の娘、ジュスティーヌ・グリンカ嬢が、パリで政治情報を収集する任務を帯びて勤務中のことだった。彼女はセント・ペテルブルグのオルゲフスキー将軍<原注4>と連絡をとっていた。この任務のために、彼女はジョセフ・ショールストというユダヤ人を雇った。ある日、パリの[フリーメーソンの]ミズライム・ロッジの一員であるショールスト<原注5>が、ロシアにとって非常に重要な文書を提供するから二千五百フラン出さないかと話を持ちかけてきた。セント・ペテルブルグから到着した全額が支払われると、問題の文書はグリンカ嬢に手渡された。<原注6>

  嬢はフランス語の原本に前書きを付け、ロシア語訳を添えてオルゲフスキーに届けた。オルゲフスキーは今度は皇帝に届くように、上官のシェレーヴィン将軍に手渡した。だが、シェレーヴィンは、裕福なユダヤ人から負債を負っていたため、握りつぶしてただ資料保管所に保存しただけに終った。<原注7>

  一方、パリではロシア宮廷生活のことを書いた書物<原注8>が出版され、ロシア皇帝の不興を買った。皇帝は秘密警察に著書を見付け出してくるように命じた。このことが、恐らく意図的にねじ曲げられて<原注9>、グリンカ嬢が著者であるということにされ、彼女はロシアへの帰途、彼女の農園があるオレルに追放の身となった。グリンカ嬢は、この地方の貴族であるアレクシス・スホーティンに、プロトコールの写しを一通渡した。スホーティンはこの文書を、ステパーノフとニールスという二人の知人に見せた。ステパーノフは一八九七年、ひそかにこの文書を印刷し配付した。ニールスは、初めはツァルスコエ・ツェロ(ロシア)で一九〇一年に、『卑小の内なる偉大』という書名で出版した。次いで、同じ時期に、ニールスの友人G・ブトミもまた写しを一部持ち出し一九〇六年八月一〇日、大英博物館に寄託した。

  その間、ロシア警察のユダヤ人たち<原注10>を通じて、一八九七年のバール<[バーゼルの古名]会議<原注11>の議事録が入手され、その文書がプロトコール<原注12>の内容と酷似していることが判った。

  一九一七年一月、ニールスは改訂増補版を出版する準備をしていた。だが、同書が市場に出回らないうちに、一九一七年三月の革命が起こり、政権を取ったケレンスキーはニールスの本を全冊処分する命令を出した。一九二四年、ニールス教授はキエフでチェカに逮捕投獄され拷問を受けた。ニールスは首席裁判官のユダヤ人に、この処分は「プロトコールを出版することで測り知れない損害を人々に与えたこと」に相応する措置であると言われた。数ヵ月後に釈放されたニールスは、今回はモスクワで再びGPU(ゲーペーウー、チェカ)に逮捕され監禁された。一九二六年に釈放されたが、ニールスは追放先のウラジミールで亡くなった。時に一九二九年一月一三日だった。

  ニールスの第二版は数冊押収を免れ、外国へ持ち出され刊行された。ドイツではゴットリート・ツム・ビーク(一九一九年)、英国ではザ・ブリトンによって(一九二〇年)、フランスではジュアン氏が『秘密社会国際評論』で、また、ウルバン・ゴイェが『ラ・ヴェーユ・フランス』、アメリカ合衆国ではスモール・メイナード会社(ボストン、一九二〇年)である。後には、イタリア語、ロシア語、アラビア語、そして日本語でも刊行された。

  以上が、プロトコールがいかにロシアにやって来たかの手短かな物語であり、以来、広くこの書が読まれるようになっている。

  この点に関するステパノフ氏の調書<原注13>を裏付け証拠として、ここに掲載する。「一八九五年、トゥーラ地方の私の知人、元市長のアレクシス・スホーティンが、私に『シオン長老のプロトコール』の手書き原稿をくれました。スホーティンは、パリに居住する知り合いの女性が、その女性の名前は言いませんでしたが、ユダヤ人の友人の家で見付けたものだと言いました。パリを立つ前に、彼女はひそかに翻訳して、その一部がロシアに来て、スホーティンの手に渡ったと言いました。

  初め私はこの翻訳を謄写版で印刷しましたが、読みにくいものでした。それで活字印刷することにしましたが、何時だったかどこの町の何という印刷所だったか覚えておりません。この件に関しましては、その頃、セルギウス大公の執事長だったアルカディ・イッポリットヴィッチ・ケレポフスキーに手伝ってもらいました。彼がこの文書を地方の印刷所に印刷させたのです。それは一八九七年のことでした。セルギウス・ニールスは彼の著作の中にこのプロトコールを入れ、彼自身の注釈を付けました。

(署名)フィリップ・ペトロヴィッチ・ステパーノフ
元モスクワ長老教会事務弁護士、式部官、枢密院委員、現在(一八九七年)オレル町所在モスクワ・カーク鉄道代表。一九二七年四月一七日。
証人 ディミトリ・ガリツィン王子
スタリ・フォンタク所在ロシア移民居留地代表


<原注1> ギリシャ語のprote(最初)+kolla(にかわ、接着剤)。
<原注2> この返書は、十六世紀のスペインの書物、フリオ・イニゲス・デ・メドラーノ著『ラ・シルヴァ・クリオサ』(パリ、オリー出版社、一六〇八年)の一五六頁から一五六頁にかけて掲載されている。(写真説明略)
<原注3> フェルディナンド王。
<原注4> 当時の内務大臣シェレーヴィン付き秘書官。
<原注5> 別名シャピロで、彼の父親はロンドンでこの二年前、偽造罪で十年の懲役宣告を受けた。
<原注6> ショルストは、エジプトに逃亡したが、フランス警察の記録では、同地で殺害された。
<原注7> 一八九六年、彼は死に際してプロトコールを含めた自分の回想録をニコラス二世に遺贈した。
<原注8> 〝ヴァシーリー伯爵〟の偽名で発行されたこの本の真の筆者はジュリエット・アダム夫人で、デミドフ・サン・ドナコ王女、ラジヴィル王女その他のロシア人の提供した資料を使って執筆した。
<原注9> パリのロシア秘密警察にいたユダヤ人にマニウロフがいて、この憎むべき人物はM・パレオローグの『回想録』に描かれている。
<原注10> 明らかにエノ・アゼフとエフロムである。エフロムは、以前ラビであって一九二五年に逃避先のセルビアの僧院で死没した。彼はよく修道僧に、プロトコールは世界を支配しようとするユダヤの計画のほんの一部であって、異邦人に対するユダヤの憎悪を弱々しく表現したものに過ぎないと語っていた。
<原注11> 上記、第一部三四頁。
<原注12> ロシア政府は、ブナイ・ブリスが一八九三~四年にニューヨークで開いた会議で、ヤコブ・シフ(上記、六三、六四頁)がロシア革命運動委員会代表に選ばれたことを知った。
<原注13> 著者訳。




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